この物語の構成

(1) 惣五郎との出会い    (2) 聖心の過去   (3) 人間の基本

(4) 惣五郎の苦悩   (5) 存在   (6) 天の考え(意思)

(7) 自分の本当の魂の発見  (8) 魂のクリーニング法(魂の改善法=GFIT法)

(9) 失敗をどう考えるか   (10) 内なる「希望の光」の創造 

(11) 孤独脱却法(感謝魂が一体感を創出)   (12)「生きる意味」その一  

(13) 人生の主語を「自分が」から「天が」に  (14)「生きる意味」その二  

(15) 惣五郎のその後   (16) 著者から皆様へ  

日光の温泉宿「いろは屋」の「引きこもり息子の甚五郎」の問題を解決した修行僧の聖心は日光をあとに上州へと向かいました。そして金精峠の途中で自殺志願の惣五郎という男に出会いました。神経衰弱と孤独に陥っている惣五郎から「生きる意味」という今までにない難問を突きつけられました。聖心は人生危機脱却思考の要を惣五郎に伝授しますが、果たして惣五郎は立ち直ることができるのでしょうか? そして驚くべき孤独脱却法をも惣五郎に伝授しました。聖心は惣五郎の人生最大の危機である自殺志願を思いとどめさせ、生きる希望を惣五郎に与えることができるのでしょうか? ここで初めて修行僧聖心の若いときの壮絶な過去が明かされました。この物語の中であなたにとってプラスになる言葉などを発見していただいて、少しでもあなたの人生のお役に立っていただければ幸いです。
※ 修行僧の聖心は想像上の人物です。

参考
修行僧の聖心が登場して様々な問題に挑戦する物語のリスト
No.17 「口がへん曲がった田吾作」
No.13 「「損だべぇー娘」のお竜さん」
No.6 「引きこもり息子の甚五郎」

(無料で読める下記の物語もぜひお読みください)
No.16 宇宙創造の神々の攻防
No.18 のろまの「のろ侍物語」
No.20 ダイヤモンド魂になれると約束された「石ころの甚八石」

(1) 惣五郎との出会い

修行僧の聖心は日光のいろは屋の甚五郎の問題を解決し、主人の甚助からお礼の路銀とおにぎり、漬物、そして御菓子をもらって上州へと向かいました。その日は雲一つない晴天でした。上州へと向かう金精峠を登っていくなかで聖心は『やれやれ、どこへいってもいろいろな問題があるものだ。まぁ、それが人間の宿命かもしれないなぁ。次々と問題が出てくるのを苦労しながらも解決していくことによって人間は成長していく生き物かもしれない。何の問題もなければそれに越したことはないが、なかなか人生そうはいかない。逆に問題があるから人の魂が磨かれ、世の中も少しずつ良いほうへと進歩していくとも言える。問題が人の魂を磨く砥石みたいなものだ。いろは屋の甚五郎にGFIT法(ジーエフアイティーほう。この方法はこの物語の「(8)魂のクリーニング法」で詳細が分かるようになっています)を伝授したので、きっと今の危機を脱却していってくれるに違いない』と心の中で思ったのでした。

そんなことを思って金精峠をどんどん登っていくと、見晴らしの良いところへとさしかかりました。しかし、そこは危険なところでもありました。一歩間違えば切り立った谷底へまっしぐらのところです。そんなところで聖心は平らな大きな石を見つけました。そしてそこで一服することにしました。そう決めた聖心は石に腰を下ろしてしばらく休んでいると、疲れきった様子で、しかも挙動不審の中年の町人らしい男が、一服している聖心のほうへ近づいてくるではありませんか。それを見た聖心は、その男が自分に最も近づいたとき、「顔色がすぐれないようだが、何か心配事でもおありかな?」と質問しました。するとその中年の男は「もう世の中が嫌になりました。この世の人間と、今の世の中を恨んでいます。もう限界です。俺はもうだめです。死に場所を求めてここへやってきました」と、突然とんでもないことを言ったのです。それを聞いた聖心は「それはおだやかではないですなぁ。だいぶお疲れのようだ。まぁ、死に急がなくてもわしの隣に座って休みなさい。これも何かの縁じゃ。ここにおにぎりがある。漬物もある。まぁ、これを食べれば少しは落ち着いて元気も出てくるぞ」と言いました。するとその中年の男は「死にたいのです。かまわないでください」と言いました。聖心はそれを聞いて「尋常じゃないなぁ。まぁ、はっきり言って他人のお前さんが死のうと生きようとわしには関係がない。人間は自分の考えで人生を選択していける生き物だからなぁ。お前さんがそんなに死にたいなら強制的にそれを止める権利はわしにはない。好きなようにしてもかまわない。しかし、わしの経験から死を選択することだけはやめたほうがいい。えらい大損になるぞ、それだけは今言える。わしのことは後で話すよ。お前さんの人生をあれこれ言う権利は確かにわしにはない。他人のわしはお前さんのすべての権利と自由を侵害することはできない。そのために、この世の中には"親切は大きなお世話だ″と考えている人もいる。人はいろいろだからなぁ。

しかし、わしも坊主の端くれだ。人が今死のうとしているのを見て、簡単に「さぁ、どうぞ」とも言えないだろう。まぁ、ひとまずわしの隣に座りなさい。この世の見納めにもなるかもしれないしなぁ。いろいろと話でもしませんか。あの世の閻魔大王様へのみやげ話になるかもしれませんよ」と冷たいことなのか、温かいことなのかわけの分からないことをその男に言いました。するとその男は安心したのか少し間を置いて、黙って聖心の隣に座りました。聖心はすぐに「おお、座ってくれたか。ありがとう。少しは話ができそうだ。ところで名は何と申すのだ?」と言いました。するとその男は少しためらった様子で「惣五郎と申します」と言ったのです。それを聞いた聖心はすかさず「そうか、惣五郎さんか。わしは全国を旅している修行僧の聖心という坊主だ。ごらんのとおりの格好だ」と自己紹介しました。そしてすぐに「惣五郎さん、歳(とし)はいくつだ?」と質問しました。すると惣五郎は「四十八です」と言いました。それを聞いた聖心は「そうか四十八か。わしと同じだなぁ。まぁ、いろいろあったんだろうなぁ。四十八年も人間という商売をやっていればいろいろあるわなぁ。惣五郎さんが「人間商売」というお店をやって最後にたどり着いたのが自殺というわけか。「オギャー」と母親のお腹から生まれてすぐに店を開業できたのに最後は自らぶっ壊すとは!!」と言ったのです。それを聞いた惣五郎は一瞬変なことを言うお坊さんだと思いました。そして「なぜ人間が生まれて店なのですか?」と、何と聖心に質問したのです。それを聞いた聖心は「何だ、今死にたいと思っている人間がこの世のことを気にかけるということは、少しは煩悩が残っているのか? 煩悩は生きる源だからなぁ。まぁ、そんなことはどうでもよいが、店に例えれば分かりやすいと思ってそう言ったのだ。お店をやっていればいいときもあれば悪いときもある、年がら年中儲かるわけでもない。世の中の不景気で損をするときもあれば、泥棒に入られるときもあり、人にだまされるときもあり、万引きにあうということもある。嵐で店が壊れるときもある。ただ、それだけではないぞ。地震もあれば火事もある。海の近くだったら津波もある。まぁ、プラスもあればマイナスもある。マイナスが多くなってくれば赤字になる。そうすると店をやっていることが嫌になってくる。人間と同じだということだ。人間もマイナスが多くなってくると人間商売が嫌になってくる。ひどくなってくるとうつ病などの心の病になる。惣五郎さんは今、人間商売大赤字ということだ。心の病にもおかされているようだしな。だから死にたいのだ」と言ったのです。

それを聞いた惣五郎は自然と「うんうん」と首を縦に振りました。そして「まったくその通りなのです。何をやってもうまくいかないのです。日光で漬物の製造販売の商売をしているのですが、今までの漬物は必ずお客様に飽きられて近い将来必ず売れなくなると思い、今までにないよりおいしい新しい味の漬物を作りたいと考えて、その漬物の研究をしていましたが、やることなすこと、ことごとくうまくいかず失敗と挫折の繰り返しで、もう生きていくのが嫌になりました。商売仲間は「そんな新しい味の漬物は出来るはずがない。今までの味でいいのだ。今の味が漬物の味と昔から決まっている。わざわざ金と時間を使って新しい味の漬物を作るのは、金と時間の無駄遣いだ」と言って馬鹿にして誰も協力してくれません」と正直に聖心に言いました。それを聞いた聖心は「そうだったのか。それにしてもよく初対面のわしにそこまで話してくれた、感謝するぞ。すると、惣五郎さんは漬物の将来性を考えて新しい漬物に挑戦していたのか。すばらしいことではないか。目のつけどころがいいなぁ。たいしたものだ。まぁ、詳しいことは聞かないが、さっきも言ったようにまずは腹ごしらいをしてはどうだ」と惣五郎をほめながら言ったのでした。すると惣五郎は安心したのか気軽に「はい」と言って聖心がさしだしたおにぎりと漬物をがむしゃらに食べたのです。それを見ていた聖心は「相当お腹が減っていたとみえるなぁ。おいしいか?」と惣五郎に聞きました。すると惣五郎は「はい、三日三晩何も食べないで死に場所を探していました。お腹が減っていることにも気づかず、ただ死にたいことばかりを考えていました」と言ったのです。

(2) 聖心の過去

それを聞いた聖心は「そうか、わしの若いときにそっくりだ。実は惣五郎さん、今わしは坊主をしているが最初から坊主をしていたわけではないのだ」と、なにやら聖心は若いときの話をし始めました。聖心は続けて「わしは若いとき、商売で成功して金持ちになりたいという大きな夢と希望を持って、越中から江戸へ行ったんだ。しかし、やることなすこと失敗と挫折の連続よ。挙句の果てに女房、子供にも愛想をつかされ、最後は見放されてしまったよ。今でこそいろいろなところへ行っては偉そうなことを言っているが、過去のわしは惣五郎さんより悲惨だったよ。最後は自暴自棄になり、もう人生どうでもいいと思い、根っからの女好きと、博打(ばくち)好きがたたって、女遊びと、博打に狂ったように興じてしまい、多額の借金を背負ってしまったのだ。もう一つもいいことのない現実を忘れたいと思って女と博打にはまってしまったのよ。博打は最初一人勝ちして大金を手に入れたが、最後は、スッカラカンよ。挙句の果てはお決まりの借金だけが増えていったというわけさ。もうこうなってくると勝つ目は出ない。借金は雪だるま式に増えていったよ。一人勝ちしているときは負けた野郎に向かって心の中で「ざぁまぁみろ!!」と馬鹿にしていたよ。しかし、そんな一人勝ちは長く続かず、最後は女遊びと博打の借金と、商売で作った借金の両方で首がまわらなくなったのだ。それであわてて金策に走ったのだが、最後は誰一人としてわしに金を貸してくれなかった。それで万事休すよ。そんなわけで何もかも嫌になってこの世を恨み、世の中の人達を恨んだよ。そして最後に死のうと思って隅田川に飛び込んだのさ。しかし、運がいいのか、悪いのか分からないが、たまたまそこを通りかかった信州のあるお寺の住職に助けられたのだ。まぁ、住職に運良く拾われたというわけさ。そして死のうと思った理由をその住職に全部正直に話したんだ。そしたら住職が、何とわしの商売の借金を整理するのに力を貸してくれたのだ。住職のご尽力で幕府(国)のご法度(法律)を使ってわしの借金がすべて棒引きになったのだ。しかし女遊びと、博打の借金は棒引きから除外され、結局田舎の田畑と家屋敷を売り払って整理したよ。これですべてを失ってしまったというわけさ。

しかし、間一髪で命だけは残った。住職によると阿弥陀如来という仏様の力が働いて、わしの命は救われたのだそうだ。最初はそんな馬鹿なことがあるわけがないと思って信じられなかったが、住職から仏法やいろいろな法話などを聞いているうちに住職の言うことが少し分かってきたよ。しかし、どうして阿弥陀如来様がこんな色欲と、強欲と遊び好きのどうしようもないわしを救ったのかは、いまだにはっきりと分からない。しかし、住職は「この人間は将来世のため、人のために働く人間だ」と如来様が判断して救ってくださったのだ、と言うばかりだ。そして「如来様はすべての人間を愛しているが、お前は特別に愛されている人間なのだ。生まれてからお前の心の中も含めてすべて観ていたのだ」というのだ。そのときはそのことはなかなか信じられなかったが、今は阿弥陀如来様がどこかでわしのことを観ているような気はしている。だから住職の言ったことを今は信じている。そんな経験をしたものだから仏法やその他のことを人間一年生になったつもりで勉強し直したのだ。そしたら最後に人間の罪という問題にぶつかってしまった。この人間の罪の問題を知ってからというもの、悶々とした日が続き、そしてとうとう悟ったのだ。わしは出家しないかぎり絶対に救われない本当に罪深いどうしようもない人間である、ということをなぁ。それで出家し、今こうして坊主となり、全国を旅しながら、いろいろな悩みなどで苦しんでいる人々の力に少しでもなりたいと思って修行をしているというわけさ。

これも命が残って住職の言ったことを信じたからできているのだぞ。わしは信じるということが生きていくうえで大きな力になることをはじめて知ったのだ。そして命というものがいかに大切なものかということも分かった。命があればいつかいい人に出会うこともできるし、いいアイデアが出てくるチャンスもあるということだ。そして今では命があるおかげで少しでも苦しんでいる人の力になれる。これが今のわしの生きがいだ。そして自分の罪が徐々に消えていくと感じているよ。そんなわけできょうその旅の途中で惣五郎さんと出会ったというわけだ。これもわしに命があったから出会えたのだぞ。そして惣五郎さんが早まらないで、何とか迷いながらもここにたどり着いたのでわしと出会えたのだぞ。どんな人間と出会うかで人生は決まるものだ。わしは信州の住職と出会って新しい人生が開けたのだ。今こうして惣五郎さんと出会えたことは信じられないかもしれないが、きっと阿弥陀如来様のお導きだぞ。きっと如来様が惣五郎さんに新しい人生を切り開いてもらいたいと思っているに違いない。如来様が惣五郎さんを観ていたのだ。わしは惣五郎さんよりでたらめでどうしようもない、我欲の塊(かたまり)の男だったんだよ。驚いたか」と何ときょう会ったばかりの惣五郎に、聖心は緊急事態と感じて自分の身の上話をしたのでした。そして聖心は続けました「惣五郎さん、今わしは生きていて本当によかったと思っている。多くの苦しんでいる人々のために、たった一つだけ残ったこの命を燃やすことができるからなぁ。こんなわしの命が使い方によっては人のためになるのだからなぁ。命というのは人様のお役に立てるためにある、ということも含めていろいろと本当のことが分かってきたのだ。詳しいことはだんだんと話が出来ると思うが、結論から言うと人間は魂次第でどうにでもなるものだということだ。魂というのは「考え方」と「魂の持ち方」でどうにでもなるのだ」と言ったのです。それを聞いた惣五郎は「そんなもんですか、人間というのは」と言って、少し間をおいて「聖心さんはそんなことがあったのですか」と、ぽつりと言いました。そして小さな声で「聖心さんは私より大変だったのですね。でもいままで魂のことなど考えたこともなかったです」と聖心に言ったのでした。

(3) 人間の基本

それを聞いた聖心は「そうだよな。普通は魂のことなど考えないよなぁ。一日一生懸命働いて金を稼いで、飲んで食って休んで寝て、また一生懸命働く。毎日毎日そんな繰り返しだよなぁ。魂のことなど考えたって一銭の金にもならないしなぁ。金にならないことなどに興味はないよなぁ。ところが金にならない目に見えない魂が人間を滅ぼさない「心の財産(生きるための知恵)」だということがやっとわしは分かったのだ。例えば仕事はよく段取り八分で決まるというだろう。人生も「心の財産」、すなわち生きるための知恵(又は考え方)八分で決まるのだ。また富士山は日本一のすばらしい山だ。その富士山を支えているのは広大な裾野だ。富士山を日本一すばらしい山にしているのは、約八分がたの広大な裾野が存在しているからだ。人間の人生も魂の八分がたを目に見えない「心の財産」という裾野で占めれば、富士山のような美しい堂々とした、どんな嵐にも耐えうる安定したすばらしい人生を築くことができるのだ。そして目に見えない心の財産を八分にすれば人生にどんなことがあっても魂は滅びないということだ。わしはそのことを人間一年生になって勉強し直して分かったのだ。まぁ、そんなことはこれから話をしていくなかで少しずつ分かってもらえると思う。話は戻るがさっきも話したようにわしはめちゃくちゃな人生だったのだ。多くの人に迷惑をかけたよ。わしも最後は惣五郎さんと同じく、死にたいことばかりを考えていたのだ。そして最後は川へ飛び込んだっていうわけさ。今から思うとよくそんなことが出来たと思うよ。そのときは必死だったんだよ。きっと惣五郎さんもわしと出会わなければ今頃ここから身を投げていただろう。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・・。ここで出会ったということは、きっと阿弥陀如来様が惣五郎さんを救いたいと思っているのだぞ。きっと将来世のため、人のために働く人間だと如来様が思っているのに違いないぞ。だからこれから話すことを心して聞いてくれ。今、わしが出来ることは惣五郎さんを「生きる水」のある場所へ連れていけるだけだ。その水を飲むかどうかは惣五郎さん自身が最後に決めなければならない。わしが惣五郎さんを救うことは、はっきりいって出来ない。最後に救うことが出来るのは惣五郎さん自身しかいないのだ。だから今、緊急事態なのでしゃべりまくるぞ」と言いました。

そして話を続けました。「ところでなぜ、人間は身を投げる行動をとるのかということだ。さっき、惣五郎さんが「ただ死にたいことばかりを考えていた」と言ったと思う。ここにヒントがあるのだ。まぁ、わしもそうだったのだが、死にたいことばかりを考えているときは他のことは考えられない。魂の中はこの世は地獄となる。だから地獄から開放されたくて死ぬことを選択するのだ。逃げ場がない状態だ。そしてその逃げ場のない地獄は苦しくつらいからなぁ。ここで一つ考えてもらいたいのだ。地獄は一体誰が作っているかということだ」と言って、少し間をおいて話を続けました。「もうその答えは「自らの魂である」ということを惣五郎さんも分かっていると思う。世の中でもなく、人でもない。己なのだ。中には「今の世の中が悪いので俺の魂は地獄だ。人が悪いので俺の魂は地獄だ」と自分の魂が地獄になったのを他のせいにする人もいる。これは間違いだ。まぁ、少しはそういう外的な要因で地獄になるかもしれない。しかし、最終的には己なのだ。それでは惣五郎さん、魂とは何か? 魂とは考えということだ。魂イコール考えではないが、考えは魂に大きく影響を及ぼすものなのだ。死ぬことばかりを考えていれば当然死ぬ行動をとるのだ。魂の持ち方が惣五郎さんを地獄へと導いたとも言える。だから人間の基本は「考え」と「魂の持ち方一つ」ということなのだ。魂の持ち方一つで地獄にもなり、逆に極楽にもなる。そして何を考え、何を魂に思い描くかということがその人間を決定するのだ。

これで人生が決まる。いや、大きく言えば世界が決まるといっても過言ではない。そして人間は考えたとおりになる生き物なのだ。死にたいと考えれば死ぬ方法のアイデアが出てくる。アイデアが出てこなければ自ら探す。それで惣五郎さんはいろいろさまよってここから飛び降りる方法にたどり着いたのだ。人のものを盗むことばかりを考えれば泥棒としてのアイデアが出てくる。人を憎んだり恨んだりして殺したいと考えれば殺す方法のアイデアが出てくる。一番分かりやすいのが兵器だ。兵器はどうやったら大量に人間を確実に殺すことができるか、ということばかりを考えた結果生まれたのだ。逆にどうしたら多くの人間を生かすことが出来るかということばかりを考えればすばらしいアイデアが出てくる(例えば赤十字社、国境なき医師団等)ということだ。生きたいと考えれば生きるアイデアが出てくる。世の中を良くしたいと考えれば良くしたいアイデアが出てくる。人間というのはそういう生き物なのだ。そして人間「信じる」という考え方をすれば魂は地獄ではなくなる。わしは住職の言ったことを信じたから坊主になることができたのだ。信じるということはひとつの力だ。だから地獄や絶望からの脱却方法の一つのキイワードは「信じる」だ。それゆえに地獄や絶望からの脱却方法として、信じられる人間に心を開いて、その人間の懐に逃げ場を求めるという方法がある。これは決して敗北ではない。生きるための知恵だ。惣五郎さんも御存知だと思うが、ネズミは利口だぞ。ネズミは、まず、敵に追い詰められたときのために逃げ道をつくっておくのだ。これがネズミの生きるための知恵だ。ネズミに出来て人間にそれが出来ないわけがない。人間はネズミより利口だからな。しかし、人間は地獄や絶望に直面したとき、なかなか素直に人の懐に入れない。なぜならばそれは自分を支えているプライドがあるからだ。しかし、緊急事態時にはそんなことはいっていられない。人間、今までのプライドを捨て、人の懐に入り、人間一年生になり、勉強し直すという決意をし、勉強すると今まで以上に成長でき新しいプライドが生まれるのだ。だから、地獄や絶望というのは生まれ変われるチャンスでもある。さっきも言ったように人の懐に逃げ場を求めることは敗北ではない。

GFIT法の思考転換でマイナスの価値をプラスの価値へ転換
生きる知恵なのだ。人間が行き詰ったときや追い詰められたときのような絶望を乗り切るためには知恵が必要なのだ。人間の世界には、いじめなどや様々な苦悩によって自殺する子供や大人もいる。惣五郎さんやわしもはっきりいってその仲間だ。だから問題に行き詰ったり、追い詰められた場合を想定して親や社会は「何かつらいことがあってどうにもならなかったらいつでも父ちゃん、母ちゃんの懐に入っておいで。何でも相談にのるよ。いつでも懐の門は開けておくからね。ありのままのお前を受け入れるからね。愚痴や泣きごとなど何でもかまわないからはきだしていいんだよ。懐に入っての相談は敗北ではないよ。生きるための知恵だからね。親に心配をかけまいという考えはしないでおくれ。親は頼りにされるとうれしいもんなんだよ。親は何の問題もなく心配事がなくなると早く死んでしまうもんだ。だから、心配をかけるということは親を長生きさせる一つの親孝行ぐらいに思って、何でも相談しておくれ」と言っておくことは大切なことだ。また社会には様々な相談機関がある。心を開けば相談できる。友達の懐に入るということも大切だ。だから常日頃、自分の本当の姿をさらけ出せる友達を作っておく必要がある。いいところだけ見せあう表面的な付き合いは、いざというときもろいもんだ。だからいいところ(長所や強さ)も、悪いところ(短所や弱さ)も素直に出せて、心の底からの理解者の友達が必要だ。また、神様、仏様の懐に逃げて地獄や絶望を克服することもできる。これが信仰だ。ただ、信仰によって様々な問題や事件が世の中で起きているので、世間の評判などや事前に調査したりして市民権を得ている神様、仏様を選ぶことが肝要だ。信仰は敗北だと思っている人も少なからずいる。

しかし、信仰は人間が生きるための一つの知恵だ。先人が苦労して切り開いた生きるための知恵なのだ。敗北ではない。新たなる出発だ。自力(今までの価値観や考え方)で人生という荒海を航行できなくなれば、ほかの船(新しい価値観や新しい考え方)で引っ張ってもらって航行していけば難局は乗り切ることができるということだ。信仰というのはそのような一つの助け舟みたいなものなのだ。ただし、信仰は個人の心の問題であって人が強制するものでもない。憲法によって個人の自由が認められている。そのことは確認しておきたい。そして最も重要なことは宗教に偏りすぎない、のみ込まれない、溺れないということだ。宗教で一番恐ろしいのはあまりにも熱心になりすぎて一線を超えた場合、過激的になっていく場合があるということだ。そうなると自分が信心しているもの以外は敵となり、愛することができなくなる。存在すら認めたくなくなるのだ。これは信心によって愛が醸成されなくて、逆に憎しみが醸成されたからだ。このことには十二分に気を付けなければならない。最悪、暴力やテロ、殺人などに発展する場合もある。自分の主義主張や信念を持っている人間は確かに立派で信頼するに値する。しかし、酒、女、ギャンブルでもそうだが、のみ込まれたり、溺れたり、狂ったりすると人間が駄目になってしまうのだ。そして最後に事件や悲劇が起きる可能性があるのだ。そんなことにならないためには人間の理性と感性と霊性のバランス感覚を失ってはならないということだ。このバランス感覚を失わなければマインドコントロールされることはない。このことを知っておいてほしいのだ。 信仰は多くの先人が苦労して切り開いたものだが、人間は本来善玉魂の生き物なのだ。人間の魂の奥底に神性又は仏性の純粋な良心を人間は本来持っている。だからこの純粋な良心の善玉魂を目覚めさせるGFIT法という「人間力の復活・向上法」で立ち直ることができる。GFIT法は後で詳しく教えてやるよ。これは1996年に発見された脳内のミラー細胞の働きを利用している。これは21世紀型で忙しい現代人にふさわしい方法だ。これは自分でやるイメージトレーニング法だ。この方法は組織に束縛されることもない。自由だ。これはわしが考えた。金もそんなにかからない。そして何といっても21世紀型は明るい。これが大きな特徴だ。人間の脳の支配者は自分の純粋な良心でなければならない。脳の支配者を他者にするとマインドコントロールされる可能性もある。過去に起こった事件を見てみると最悪は、本人が、正気に戻って気が付けば死刑判決が出ている。こんなことを望んだわけではないのにこうなってしまった。気をつけなければならないのだ。要は自分を見失わないということだ。魂を盗まれないようにしなければならないのだ。GFIT法は又優しく思いやりのある人間になる方法でもあるのだ。人間は強いようで弱いもので希望を外に見出そうとする。希望は人が与えてくれるものではないのに外に依存するのだ。その方が楽だからな。

しかし、本当の希望は自らの頭で考えて見出さなければならない。人に頼るなということだ。苦労は当然あるが自ら考え、工夫し知恵を出して創造していかなければならない。外に依存するとそれが実現出来ない場合、最悪不満となっていつか爆発するのだ。俺がこうなったのはあれが悪い、これが悪いと言い出し始めるのだ(参考でここも読んでください)。しかし、自分ではどうすることもできない問題を抱えていて、ただ信仰しかないという道も現実ある。信仰で気をつけなければならないのは天に対して一方的に自分の願いだけを頼んではだめだということだ。人間は自己中心の生き物でもあるので自分の都合のいい時だけ天に頼む。これは自分勝手の心だ。これはいかん。そしてまずは天に対して自分の心は「無」だ。ただただ感謝でいい。自分の我欲が先に走ってはだめだということだ。そうすればいつか、天が方向なり、その悩んでいる答えを出してくれる。本当の信仰とはそういうものなのだ。信仰で失敗するのは「俺が、俺が」の心だ。信仰しているのにまだ自分が一番だ。天が先に生まれたのに自分が先だといって先輩風を吹かす。肝心なのは人間が先で天が次ではないのだ。ここが人間の傲慢なところだ。天が先で人間が後だ。ここを間違えると全てが狂ってくる。人間関係も同じだぞ。そして早く信仰の実を刈り取りたいと人間は考える。その考えはこんな厳しい世の中だから解る。しかし、実はそんなに早く刈り取ることはできない。すべては種まきから始まる。種をまいた翌日に実が実るか? 実を刈り取りとるためには手間がかかる。この手間を面倒くさがってやらないと実は実らないということだ。実が実るまではまずは感謝からなのだ。とにかくただただ感謝の誠を捧(ささ)げるのだ。これがなかなか出来ない。このなかなか出来ない行為がワンクッション入らないと天は喜ばない。ましてやそこに損得やご利益の心があってはなおさらだ。そこが難しい。最後に一番肝心なことはビジネスと信仰は全く別だということだ。信仰してビジネスが失敗したとき、天を恨む人間がいる。それで信仰を捨てる。俺がこんなに愛しているのにどうしてだ、ということになる。これは本当の天の意思を読み取ろうという努力をしない人間の行為だ。これは慎まなければならない。信仰は無条件の愛でなければならない。そうしないと本当の天の意思を読み解くことはできないのだ。ここで天と言っているが人間と置き換えてもいい。人間も同じだということなのだ。

ところで金や学校で勉強した知識というのは心の問題を解決できない。だから惣五郎さん、まずはわしの懐に逃げて、愚痴や泣きごとなど何でもいいからはきだしてくれ。そうすれば心の垢も落ちるぞ。そして死ぬという考えを生きるに変更したらどうだ。なにもこれは敗北ではないぞ。新たなる出発の第一歩だ」と惣五郎に言いました。すると惣五郎は「うーん、なるほど。そういう道があるのか」と合点したようでした。聖心はその言葉を聞いて『もしかしたらこの男は自殺をやめるのではないか』と心の中で期待を持ちました。
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悪徳と良心(悪と善)

この世の中には良心的なものと悪徳的なものがあります。弁護士の世界ですら悪徳弁護士はいます。商売の世界でも悪徳業者はいます。宗教の世界でも人間の純粋な信仰心を利用して金を巻き上げる等の悪徳宗教はあるのです。十二分に気をつけなければなりません。そんな悪徳宗教は自分で見破らなければなりません。  弱みに付け込んで金を巻き上げる宗教もありますので注意!!

※ 注意 取り巻きの人間は無条件ではありません。信仰は「神仏」との純粋な関係であって、その周りの人間との関係ではありません。そこをごっちゃにすると問題が起きる可能性があります。人間が「神仏」を自己の欲望のために悪用する場合があるのです。優しさにも本物と偽物があります。偽物は何らかの欲望を満たすためにあなたに優しく近づいてくる場合があります。偽物を見破るのはあなたです。

① 本物の神仏は信仰者の「こころ」を見ます。
② 本物の神仏は金持ちもそうでない人もすべて平等で同じだと考え、身分や財産で差をつけることはありません。
③「幸せになれないのはお布施(又は献金)が足りない」とか、信仰の勧誘時に最後には脅迫まがいの言動や、やたらと不安をあおるようなところは要注意。信仰は金で決まるものではないのです。信仰は「こころ」で決まるのです。本物の神仏は不安や動揺をもたらすのではなく平安をもたらします。

※注意・・・ 宗教の中で、人の弱みに付け込んで多額のお金を要求するところはやめたほうがいいと思います。そういうところは「人助け」が目的でなく、お金が目的だからです。明らかに悪徳宗教です。健全なところは多額のお金を要求しません。

※日本は「思想・良心の自由」「信教の自由」「表現の自由」等々の「自由」が憲法によって保障されている自由主義国家です。ですからあなたが人生の中で何を選択しようが自由です。例えばお布施又は献金をいくらしようが自由です。あなたの持っている財産を何に使おうが自由なのです。何を信仰しようとしまいとやめようと自由です。他人にとやかく言われる問題ではありません。弊社は「将来間違いが起きないようにあくまでも選択するときの一つの参考までに」ということで上記内容(本文含む)を載せています。自由というのは素晴らしいのですが、この裏にはあなたが選択したものの結果が「このようになったのはすべてあなたの責任だ(=自己責任)」という重い結末が待ち受けている場合もあるのです。そのことを忘れないでいただきたいのです。場合によっては、自由に選択した結果、最後には重い罰を受ける場合もあるかもしれません。ですから何かを選択するときは情報収集等して「よくよく考えて」選択しなければなりません。自由という価値は本当に素晴らしい価値ですが、その価値は「自己責任という重い荷物」も同時に背負っていることを決して忘れないでください。フランスの哲学者サルトルは「自由は人間に課せられた刑だ」とも言っています。しかし、自由は人間の能力をどんどん引き出し、人類の進歩と発展に寄与するものです。自由は人類に無限の発想を与えてくれるものでもあります。

(4) 惣五郎の苦悩

そんなことを思ってからすぐに聖心は惣五郎に「惣五郎さん、こんどはあんたの話をじっくり聞くこととするよ。もしよければ惣五郎さんの歩んできた人生をわしに話してはくれまいか」と言ったのです。それ対して惣五郎は「話せば長くなるし、さっきも聖心さんが説明してくれたように人間商売大赤字なのです。私も女房、子供に愛想をつかされ見放されました。挙句の果ては漬物の研究で借金が膨らんでどうにもなりません。親戚や友達も馬鹿なことをしているこんな私を相手にしていないので誰一人として金を貸してくれません。そんなわけで生きている意味が分からなくなり、毎日毎日借金の心配と、生きる意味を考えて神経衰弱になり、とうとうこの世の中が嫌になりました。そして孤独になり世の中を恨み、人を恨んで最後は死にたくなったのです」と正直に話してくれました。それを聞いた聖心は「そうか、突き詰めれば金の問題と、生きる意味が分からなくなったということだったのか。それならば何とかなるかもしれないよ」と言いました。それを聞いていた惣五郎は「何とかなりません。借金の金額がかさみどうにもならない額になりました。もうどうすることもできないのです」と説明しました。それを聞いていた聖心はすかさず「金の問題はそんなに難しい問題ではないということだ。世の中で一番難しい問題は金で解決できない問題だ。惣五郎さんが抱えている問題で一番難しいのは「生きる意味が分からなくなり、神経衰弱におちいり、孤独になってしまった」という悩みだ。金はあるところにはある。そしてそれを何らかの方法で移動して解決できるのだ。そして借金というのはわしが住職からやってもらった棒引きという方法もある。幕府(国)もいろいろご法度(法律)を設けて、人間が金の問題で一生の間で3回失敗しても立ち直れるようにちゃんとご法度(法律)を設けているのだ。その他の解決方法のご法度(法律)も今はある。だから代官所(裁判所)に行っていろいろ相談すれば力になってくれる。ご法度(法律)というのは人間が失敗してもやり直しができるためにあるのだ。だから安心して問題解決できるぞ。手はいろいろある。千手(せんじゅ)観音という観音様を思い出してみてくれ。手がいっぱい付いている観音様のことだ。その千手の千は多くという意味だ。手は方法だ。問題解決の方法は多くあるから考えてみろ、と観音様が人間に示唆しているのだ。だから解決できない問題はない。

しかし、やっかいなのは生きる意味が分からなくなり神経衰弱と孤独になってしまったという悩みだ。これはそう簡単ではないぞ。なぜかというとこの問題は金で解決できないからだ」と言ったのです。それを聞いていた惣五郎は聖心の話に徐々に興味を持つようになっていきました。そして聖心に「一緒に代官所に行ってくれますか?」と聞いてきたのです。すかさず聖心は「もちろん一緒に行ってやるとも。わしも仏様の縁で惣五郎さんとこうして友達にもなれたし、何とか惣五郎さんの力になりたいしなぁ」と言いました。すると惣五郎は何か安心したのか肩の力が少し抜けたようでした。しかし、顔色がすぐれないのは消えませんでした。それは惣五郎が抱えている「生きる意味を考えすぎて分からなくなり神経衰弱におちいり、孤独になってしまった」という悩みの答えが分からなかったからでした。それを察した聖心は、日光の「いろは屋」の主人の甚助からもらった甘いお菓子を惣五郎に食べさせたいと考えていました。そして惣五郎に「惣五郎さん、甘いものは脳みそにいいそうだ。これを食べて脳みその疲れを取り元気になってくれ」と言って、今度は甘い御菓子と水筒の水を惣五郎にやりました。惣五郎は「ありがたいです」と言って聖心が差し出した御菓子と水筒の水をもらいました。そしてこれもがむしゃらに食べたのでした。

(5) 存在

食べ終えた姿を確認した聖心は「惣五郎さん、少し食休みしましょう。昔から親が死んでも食休みというではないですか」と言って惣五郎に少し休むように促しました。それを聞いた惣五郎は「はい」といって石の上で横になり休みました。そんな惣五郎を見ていた聖心は『いろいろ悩んで夜も眠れなくなっての精神的な疲れと孤独が人間の最大の敵だ。精神的な疲れと孤独が人間を死に追いやる犯人でもある』と心の中で思っていました。聖心がそんなことを思っていると、しばらく横になって休んでいた惣五郎が立ち上がって「聖心さん、生きる意味をこんどは教えてくれませんか?」と突然言ったのです。驚いた聖心は「まぁまぁ、別なおいしい甘いお菓子もあるので、これをゆっくり二人で食べてからにしましょう」と言いました。それを聞いた惣五郎は「はい分かりました」と言って、また座り直して聖心が差し出した御菓子を食べ始めました。それを見ていた聖心は『かなり惣五郎さんも落ち着いてきて素直になってきたなぁ』と心の中で感じていました。そんなことを感じながら少し時間が経ってから聖心は「惣五郎さん、あんたはなぜ今ここに存在しているのですか?」と御菓子を食べ終えた惣五郎に、突然変な質問をしたのです。惣五郎は考えてもいないことを質問されたものですから面食らってしまいました。そして少し考えて「親が生んでくれたので今ここにいます」と当たり前のことを言いました。それを聞いた聖心は「その親は誰から生まれたのですか?」とまた惣五郎に質問しました。惣五郎は「それはおじいちゃんと、おばあちゃんから生まれました」と答えました。すると聖心は「そのおじいちゃんとおばあちゃんは誰から生まれたのですか?」とまた質問しました。惣五郎は「その親から生まれました」と言いました。すると聖心はその親は誰から生まれたのですか?」とまた質問したのです。それを聞いていた惣五郎は「もういいです!! その親はそのまた親からです!!」と投げやりな言い方で聖心に言いました。聖心はそれを聞いて「それをずーと、ずーと、たどって気が遠くなるぐらいの生命の源までいくとどこへ行くか分かりますか?」とまたまた質問してきました。惣五郎は「そんなことは分かりません!!」と語気を強めて聖心に言いました。聖心は語気が強まった惣五郎を見て心の中で『甘い菓子を食べたのでだいぶ元気になってきたようだ』と思ったのでした。

そして続けて、「それではあそこに松の木がありますねぇ。あの松の木はどうしてあそこに存在しているのですか?」とこんどは松の木のことを質問してきたのです。惣五郎はあわてて「それはその松の親がいてそこから落ちた種が成長してそこに植わっているのです」と言いました。聖心は「そうですよねぇ。人間と同じく親の親がいてまたその親の親がいたから存在しているのですよねぇ。あそこの雑草も同じです。隣の野の花も同じです。今、見えた動物のウサギも同じです。今見えたたぬきも同じです。植物も動物も細菌も人間も同じです。この世の中に存在している動植物、細菌などの生物はみんな同じなのです。大げさに言えば同じ親から生まれた兄弟姉妹ですよ。前に「人類皆兄弟」と言った人がいましたが、そんな狭いものではないのですよ。この地球上の生き物すべては兄弟姉妹なのですよ。なぜかというと、ずーと、ずーと、そのまたずーとの動植物などの生命の源をたどっていくと科学的に言えば四つの文字からなるDNA(ディーエヌエー=デオキシリボ核酸)遺伝子情報というアデニン(A)とグアニン(G)とシトシン(C)とチミン(T)という四つの塩基という物質によって生かされているだけだからです」と言いました。惣五郎はわけの分からないことを聖心が言ったものだからますます混乱してしまいました。そして聖心に「この世の中の動植物や細菌までが兄弟姉妹だって!! そんなことはないだろう。おれの兄弟姉妹は5人だ」と言いました。それを聞いた聖心は「わしが言いたいのはどんどん気の遠くなるような時間をたどっていくとこの世に存在している生物すべては最終的に四つのDNA遺伝子情報にぶつかるということを言いたかったのだよ。元は同じものから生まれてきたということを言いたかったのだ。今はそれが分かっているということだ。元は同じでも途方も無い、長い、長い年月でそれぞれの役目が違ってきて様々なものに分かれていったのだよ。お前さんは縁があって人間という生き物にされてしまったということだ」と説明しました。そして「人間として生まれてくるということは、例えば飛行機で高度1万メートル上空から地上へ長さ1cmの釘を落として、それを探して見つけるぐらいに難しいことなんだ」と惣五郎に言いました。

(6) 天の考え(意思)

それを聞いた惣五郎は驚いて「それは本当なのか? もし本当ならば誰がそうしたんだ。もしそうならば、なにDNA遺伝子情報というなんだか難しそうな物質を誰が設計したんだ。私が人間にされたということはそういうことだろう」と逆に聖心に質問して来ました。聖心は「わしは仏教者なのでそれが仏様と教えられている。一般的には神様とか天とか宇宙の法とか、創造主とか、偉大な何者かとか、いろいろ言われている。この宇宙を創造したそれらの何者かが、そうしたのだよ。わしは仏教者だから悪いことをするとこんど生まれてくると虫にされると教えられている。もしかしたらミミズかもしれない。蛇かもしれない」と言ったのです。それを聞いた惣五郎は「そうか、それでうちのお袋が小さいとき「悪いことをするとこんどは虫に生まれるぞ」と言っていたのを思い出しました」と言いました。聖心はすぐに「そうか、そんなことを母親が言っていたのか。それで惣五郎さんは悪いことをしなかったのだな」と言ったのです。

そして続けて「さっきの話に戻るが、宇宙を創造した何者かをここでは一応「天」としよう。天はすべてのものを何とか生かそうとしているのだよ。自分の周りをみれば一目瞭然だろう。あの美しい山々と木々。秋になればすばらしい紅葉。その下にはリスなどの動物などが暮らしている。又、春になれば”さわやかな緑。夏になれば海水浴。冬になればスキー等と多くの楽しみがある。これは天が地球を秒速30Km(時速108,000Km)で太陽の周りを公転させているからだ。地球が休まず働いてくれるから我々は楽しめるのだ。地球様に感謝しなくてはならない。太陽は天の川銀河の中心を秒速約218Kmで回っている。これは江戸から福島の距離だ。天の川銀河も回転している。一回転するのに約2億5,000万年かかる。天はものすごい力を持っているのだ。そして人知れぬ山奥に咲いている名も無き小さな野の花は、誰の目にもふれることがないのに一生懸命可憐な美しさで咲いているではないか。そして空を自由に飛んでいる鳥。犬や猫。海や川の中の魚。これらはすべて天がそうしているのだぞ。天がすべてを生かそうとしているからみんな一生懸命生きているのだ。自ら滅びようなどとしているものは一つもない(数が増えすぎて種を守るため自ら海にダイビングするねずみが外国にいます)。それが自然というものなのだ。それに比べて惣五郎さんは死にたいという。自ら滅びたいという。わしも依然そうだったので惣五郎さんの気持ちは手に取るように分かる。しかし、わしは人間の自殺は大きな間違いということがはっきり分かったのだ。それは天がすべてを生かそうとする考えに反することだからだと分かったからだ。天は惣五郎さんを生かそうと考えた結果、天によって生かされているのだ。だから自ら滅びようとするのは自然ではない。自然は何があっても一生懸命生きることなんだよ。命をまっとうすることなんだよ。

天が今惣五郎さんを苦しめているのは、惣五郎さんという人間を何とかダイヤモンドのように強く明るく輝く光(大局的な人間性=優しさと思いやり魂=世界平和創造魂=ダイヤモンド魂=人生好転魂=感謝魂=希望の光)を出す人間にしたいからなんだよ。そういう天の考えを読み取ってほしいと天は願っているのだ。惣五郎さんはそれに答えなければならない。今が踏ん張りどころだぞ。失敗と挫折などの連続で行き詰ったときや追い詰められたときこそ、新しく生まれ変われる大きなチャンスだよ。このときが実は始まりなんだよ。本番がこれから始まるのだ。何せ天が人間惣五郎という役をこの世に演じさせているのだから、今までは人生劇場の第一幕の予行演習みたいなもんだと考えればいい。第一幕の本番はこれから始まると考えるのだ。天が人間惣五郎の人生劇場を演じさせているので何回も人生はやり直せるというわけさ。第二、第三幕・・もあるということさ。すべての幕がうまくいくわけではないぞ。これから先、何が待ち受けているかわからん。いいこともあれば、悪いこともあるかもしれない。成功するかもしれない。事故、事件が待ち受けているかもしれない。先のことは誰も分からん、ということだ。だから生きられる。だから面白い、と考えればいいんだ。第四幕、五幕・・・と人生劇場はどんどん展開していくのだ。そして最後は死の幕で終わりだ。それが人間の一生というものだ。しかし、死の幕の次は極楽や天国の幕が開く。この幕は極楽や天国を信じるものにだけ開く幕だ。信じれば死の問題も克服できるというわけさ。希望を持って死を迎えられるということだ。

腹が減ったらおまんま、精神はプラスエネルギーキャラ軍で元気!

(7) 本当の自分の魂の発見

もし人生の途中でうまくいかなかったら、なぜうまくいかなかったのか、どこに原因があったのかを徹底的に考えてみることだ。その結果、ほとんど自分に原因があることが分かるはずだ。要は自分を徹底的に見つめ直せということだ。そうすればうまくいかなかった本当の原因や、自分の本当の魂が見えてくる。原因が分かればそれを改善していけばいいのだ。問題は魂だ。自分の本当の魂というのはきれいではない。人間は本来、私利私欲、自己中心の我欲の塊(かたまり)なのだ。自分ほどかわいいものはないからなぁ。わしが若いとき女好き、博打好きもそのせいだ。博打は自分だけ大勝したいと考える。他人は負けろと考える。最初に言ったように他人が負けると「ざぁまぁみろ!!」という思いしか生まれない。負けているから気の毒と思って、わしの勝った金を負けている者に貸してやろうなどという気持ちは一つも起きない。逆に勝った金をまた張って、もっともっと大きく自分だけ儲けたいと思う。これがわしの本当の魂だったのだ。わしは住職に助けられ、死に損なったおかげで仏法やその他の世界の宗教、哲学など先人の書いた書物を読むことができた。そして分かったことは自分が我欲の塊(かたまり)の人間だったということさ。

(8) 魂のクリーニング法(魂の改善法) = GFIT法

「人間が発するすべては魂から出ずる」という信念で考え出した魂の改善法、それがGFIT法です。→ 魂がマイナスの煩悩によって汚れたり、濁ったり、曲ったりしたならば、GFIT法でその魂を掃除しよう。そうすればプラスの煩悩が目覚め魂は改善される。

それでわしは、どうすればこんな我欲の地獄の人間界を極楽にすることができるのかということを真剣に考えるようになった。いろいろと書物は難しく書いてあったが、ズバリ先人が言いたかったことは「私利私欲、自己中心の我欲の魂を掃除しろ、そしてこの世を愛で創れ、殺し合いの戦争で創るな」ということなんだ。それではこの世を愛で創れる魂と、戦争を起こさない魂とは何か? ということだ。わしは数十年間様々な葛藤と闘いながら考え続けてやっと一つのものに開眼したのだ。それはすべての民族とすべての宗教や思想を超えた人類共通の「大局的な人間性」のことだと分かった。それでは「大局的な人間性」とは具体的に何か? それは「愛」と「笑顔」と「感謝」だ。これは神性又は仏性の魂の純粋な良心のことだ。そしてそれを世界中の子供でも分かるように簡単明瞭に表現したのが「メルシーちゃん」という感謝魂のキャラクターなのだ。そしてこのキャラクターをイメージすれば多くの問題を解決できる可能性が広がることを悟ったのだ。

しかし、人間は簡単なものになかなか価値を認めようとしない。それは複雑に考える癖があるからだ。しかし、以外と真実というのは身近にあり、シンプルなのだ。大局的な人間性という「新しい概念」を具現化することによって少しでも人間の魂が向上することを願っているよ。人間は往々にして複雑なものに価値があると思っている。それで書物は難解なのだ。これも仕方がない。わしは必死になってその書物のメッセージを読み解いた。その結果、自分というのがよく分かった。それは自分の魂が私利私欲、自己中心の我欲の塊であるということをな。そして分かってからというものなかなか大変だったが、それを、大局的な人間性のメルシーちゃんをイメージして掃除した。掃除をしたらさっぱりした。とにかく努力して掃除をすることだ。そうすれば気持ちのいい魂になる。人間の魂はきょう晴天で気持ちがいいと感じても、明日は雨でじめじめしてさっぱりできないかもしれない。日々変わるのが人間の魂だ。そんな魂を毎日掃除して晴天で気持ちのいい日を創造する方法をわしは考えたのだ。惣五郎さんも自分を徹底的に見つめ直せば、私利私欲、自己中心の己の本当の魂が分かる。そしてこの魂が惣五郎さんの商売がうまく行かない最大の原因だということに気づくはずだ。自分のことしか考えていない自分に気づくということだ。いやぁ、俺は人のことや人の利も考えている、と言うかもしれないが、それは錯覚だ。ただの思い込みにすぎない。大局的な人間性を理解して初めて本当の優しさと思いやりが出てくるのだ。人生や商売を好転させるにはわしと同じく私利私欲、自己中心の魂を頭の中から追い出して掃除をすることだ。

その掃除方法がGFIT(ジーエフアイティー)法という方法だ。これをわしが考えた。GFITとは英語でGood Feeling Image Training(グッドフィーリングイメージトレーニング)の赤い頭文字の略称だ。これはわしが発見した「魂のクリーニング法」だ。すなわち魂の掃除法だ。苦悩除去法と言ってもいい。この方法でマイナスの煩悩を頭の中から追い出す。それを追い出して魂をクリーニングすると魂は最強の魂になるのだ。ちょうど人生丸という新しい船が出航(赤ちゃん)して船体(脳)には何の貝殻(マイナスの煩悩)も付着しないできれいな状態で進むようなものだ。しかし、長い航海(人生)ではだんだんと船体に貝殻(マイナスの煩悩)が付着してくる。そうすると船の推進力(迷いのない実行力、行動力などの能力)も落ちる。ちょうど人間も同じで長い間にはさまざまなマイナスの煩悩という貝殻が頭の中に付着してくるのだ。心の垢(あか)もたまる。そうすると推進力(迷いのない実行力、行動力などの能力)が落ちる。だからそれを落とさなければならない。その落とす方法がGFIT法だ。船は長い航海でメンテナンスが必要になる。人間の魂もメンテナンスが必要なのだ。魂のメンテナンスの一つの方法がGFIT法だ。この方法によって最強のパワーと光を出すことが出来るようになる。これがさっきも言ったが最強の魂だ。先人は神仏の信仰という方法を考え出したが、わしは人類が共通に持っている大局的な人間性をイメージしたメルシーちゃんという感謝魂のキャラクターを脳内のミラー細胞にインプットすればマイナスの煩悩を頭の中で掃除をすることができることを発見したのだ。これは信仰ではなく、一つのイメージトレーニング法だ。人間が「気の生き物」だということと、人間の脳は明るい心と暗い心が同居できないということ、そして二つ以上のことを同時に考えられない(または思い描けない)という原理を利用したものだ。人類が共通に持っているメルシーちゃんというキャラクターの大局的な人間性(=優しさと思いやり魂=世界平和創造魂=ダイヤモンド魂=人生好転魂=感謝魂)というものが人生の危機を脱却するとき大事なのだ。人間はこの人類が共通に持っている大局的な人間性に気づいたとき、大きくいえば、世界中のすべての民族や、宗教、思想などの違いをも乗り越えて「同じ人間じゃないか」という精神的な自覚ができるようになるのだ。違いがあってもその違いを認め友好的になれるということだ。言うなれば、この大局的な人間性を自覚することによってどんな人間とも仲良くなれるということだ。なぜならば、この大局的な人間性のメルシーちゃんという感謝魂キャラクターでマイナスの煩悩を掃除すると、魂の奥に眠っているダイヤモンドのように強く明るく光り輝く人類が共通に持っている神性又は仏性の魂であり、純粋な良心の大局的な人間性が目を覚ますからだ。この眠っている神性や仏性の魂の純粋な良心である大局的な人間性を目覚めさせるとプラスの煩悩が生まれる。愛が醸成されるということだ。そうなると最終的に「新しい人間観」を持てるようになる。そうすればどんな人間とも仲良くなれて、まずは相手を利することを第一に考えられるようになる。そうなればあらゆる人生の難局を乗り切ることができ人生も商売も好転する可能性が大きくなる。この方法は世界中の人間にあてはまることだ。天の考えは、すべての人間が人生好転して幸福になってもらいたいと考えている。

しかし、その天の考えを阻むマイナスの煩悩という強敵が人間の魂の中に住んでいるのだ。その強敵を掃除する方法がGFIT法だ。信仰もすばらしいのだが、わしがGFIT法を考えた理由は、信仰はどんどん信仰が深まって強いものになり狂信的になっていくと、他の信仰の違ったところばかり(または欠点)にどんどん固執していって、最後には他の信仰を否定し排除しようという魂になる場合があるからだ。これはちょうど最初柔らかいコンクリートがどんどん固まってガチガチに硬く固まったコンクリートになることに似ている。また、焼きついたエンジンにも似ている。これが人間の我執だ。こうなるとなかなか価値観が違うものを認めることが出来なくなるということだ。違う価値観を認めることが出来ないと人間は仲良くなることができないのだ。逆に敵対心が醸成される可能性さえあるのだ。ここに文明が和解できない一因があるのではないかと考えたのだ。どんなものにも必ず一つはいいところがあるものだ。そのいいところを探してそこを観ていけばいいのだが、それがなかなかできない。違ったものばかり(または欠点)を観て、それに固執していくと憎しみや恨みが醸成される場合もあるということだ。逆に共通した同じもの(またはいいところ)を観て行くと、愛が醸成されていくものなのだ。夫婦でも相手の欠点ばかりを探してそれをお互いにののしっていたら破局だ。夫婦だけではないぞ、普通の個人の人間関係でも起こることだ。それでわしはそういう人間の目には見えない心の壁を打破するために、人類が共通に持っているすばらしい大局的な人間性というものを考えるようになっていったのだ。そして、もしかしたらこの大局的な人間性が人類の魂を一つにしてくれる可能性もあるのではないかと思えてきたのだ。この人類が共通に持っている魂は、人類のアイデンティティになる。このアイデンティティに焦点をあてれば、人類の違ったものに目がいかず、差別は生まれないと思うのだ。要は視点を変えれば、人類は様々な違いを乗り越えることが出来ると思うよ。

(9) 失敗をどう考えるか

話は変わるが、逆に人生が好転しない理由の一つは失敗に対する考え方が間違っているということだよ。失敗はとにかくマイナスに見られる。しかし、本当はそうではない。失敗は新しい商売などの種を作る貴重な経験だということだ。分かりやすく言うならば、今まで気づかなかった新しいことを教えてくれる先生ということだ。惣五郎さんも今まで新しい漬物を研究していく中で今まで気づかなかった新しいことを多く発見したと思う」と惣五郎に言いました。それを聞いていた惣五郎は「そういえば、新しい色々なことが分かりました」と言ったのです。聖心はそのことを聞いて話を進めました「そうだろう。そのことは研究している本人しか分からないものだ。もう少し失敗ということを分かりやすく説明しよう。例えば成功を一つの精密機械にたとえよう。精密機械は多くの小さな部品で成り立っている。失敗をその小さな部品とすると、成功は失敗という多くのその小さな部品で出来ているということになる。失敗というその小さな部品が沢山集まって大きな成功という精密機械になるということだよ。こんなことを言う人もいる「失敗は小さな成功である」とな。そうすると小さな成功という部品で大きな成功と言う精密機械になる、と言ういい方も出来る。だから多くの失敗なくして成功はないのだ。昔から、「失敗は成功の基」というではないか。失敗する人間はやる気のある前向きな人間の証拠だ。だから惣五郎さんは誰も挑戦したことのないものに挑戦しているのだから偉い。惣五郎さんは誰も挑戦したこともない大きな目標を自分の人生に立てたわけだ。そうするとそれはそんな簡単なことではないことは最初から覚悟の上だと思う。大きな目標を達成するためにはいくつかのいばらの道をたどらなければならないのだ。想像以上の困難が待ち受けているということさ。最悪目標達成前に何らかのトラブルなどで死ぬかもしれない。そこまで考えなければならないぞ。それはちょうど長いトンネルを掘るのと似ている。長いトンネルを掘っていくと何箇所も硬い岩盤(苦悩などの様々な壁)にぶつかったり、水が大量に出てきたりして容易にそこを突破できない。

しかし、そこを突破しなければ開通という目標を達成できない。その最初の硬い岩盤にぶつかり、その岩盤を突破することができなくて、すべてが嫌になって死んだほうがいいと考えているのが今の惣五郎さんの姿だ。最初の硬い岩盤を破壊できなくて苦しいので撤退しようとしている姿だぞ。最初の硬い岩盤であきらめているようでは最初の覚悟が疑わしいぞ。開通という目標を達成するためには突破しなければならない硬い岩盤 が当然あると最初から思わなければならないのだ。それもそこを突破しても次の硬い岩盤が待ち構えているものなのだ。最初から泣きごとを言っている暇など無いぞ」と聖心は惣五郎を励ましました。惣五郎はそんな聖心の言葉で少し我に返った気分になりました。そして惣五郎のすさんだ魂に、乾いた砂に水が勢いよく吸い込まれるかのごとく、聖心の話が染(し)みていくのを感じていました。そして聖心というお坊さんとの出会いは天が引き合わせてくれたのではないかという思いがだんだんと大きくなっていったのでした。
※ 失敗というトンネルを通って新しい道が発見されるのです。

(10) 内なる「希望の光」の創造

聖心は話を続けました。「惣五郎さん、この世の中に聖人君子などいないのだ。みんな大なり小なり失敗や挫折などをしている。わしは若い頃、自分ほど不幸な人間はいないと思っていた。しかし、それは一人よがりだったことに気づいたのだ。それというのも、中にはわしより壮絶な不幸と闘って最後は勝ち抜き、幸せに暮らしている人達や、失敗や挫折を繰り返して一文無しになっても、裸一貫でやり直して財をなし成功している人も大勢いることが分かったからだ。みんな口には出さないが、それぞれ家庭内などの何らかの悩みなどを乗り越えてたくましく生きていることが分かったのだ。わしはそのことを知って、自分がわがままで甘かったことに気づいたのだ。それも生きていたからこそ気づけたのだぞ。死んでしまっては何も気づかず、何も分からず、それで終わりということになる。最初に言ったように大損することになる。それではせっかく天によって生かされている命が無駄になる。もし仮に惣五郎さんが今から一年後に必ず富くじ(宝くじ)が当たり大金が入ってくることが分かれば、きっと自殺はしないだろう。なぜならばそこに希望の光があるからだ。しかし、現実は富くじのような外のものはあてにならない。人間は先のことは、はっきり言って誰も分からない。明日、どこ、どこでこういう事故で誰と誰が死ぬとか、どこかの者が何月何日にこういう事業で成功するなんてことは誰も分からないのだ。これをやったら必ず将来成功するというものもない。いつ大地震がくるかも分からない。要は先のことは誰も分からないし、あてにならないということだ。あてになるのは今と自らの魂だけなのだ。だから人間が明るく強く目標を持って生きていくためには自らの魂に希望の光を創造するしかないのだ。人間が生きていくには外の希望に頼っていてはだめだということだ。人間は内なる自らの魂に希望の光を創造して目標に向かって、あてになる今の積み重ねの一日一日を粗末にしないで大切にしていかなければならないのだ。この一日一日の積み重ねが充実した人生を創っていくのだぞ。

これが「前向きに生きる」ということなのだ。そしていくら先のことが分からないといっても短期、中期、長期の計画は作らなければならない。そうしなければ人間的な進歩や発展はない。人間は目標を設定すると必ず壁にぶつかったり、行き詰ってどうしようもないという困難に直面する。目標が大きければ大きいほど大きな困難が待ち受けているものだ。しかし、そのときに真価が問われるのだ。真価が問われるということは困難な問題に直面したとき、自らの魂に希望の光を創造することができるかどうかで決まる。そして希望の光を創造した魂で一日一日を大切にして直面している問題と闘っていかなければならない。逃げるわけにはいかないからなぁ。そして目標をあきらめないで挑戦し、困難な問題を乗り越えていったとき、大きく人間的に成長するのだ。成功とはその結果にすぎない。魂に希望の光を創造する方法がGFIT法なのだ。
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(11) 孤独脱却法(感謝魂が一体感を創出)

話は変わるが、わしも女房、子供に見放されて孤独になったよ。だから惣五郎さんの孤独の心境も手に取るように分かる。孤独というのは本当にさみしいものだ。しかし、わしはこの孤独から脱却する方法を見つけたよ。笑われるかもしれないが、わしは木や花や犬、牛、馬、猫、小鳥などの植物や動物などに自分から話しかけることにしたのだ。そうすると不思議とその相手と友達になれることが分かったのだ。元をたどれば同じ仲間なのだから友達になれるわけだよな。例えば、木には『木さん、木を演じてくれていてありがとう。人間も偉そうなことを言っているが、あなたの葉っぱ一枚の働きをする装置はいまだ人間は作れません。薄くて狭い葉っぱで生き物に必要な酸素を作ってくれて本当にありがとう。そして二酸化炭素を吸ってくれてありがとう。ご苦労様です』と話しかけるのだ。そうすると木が『どういたしまして、私に必要な二酸化炭素を逆に出してくれてありがとう。しかし、あんまり出しすぎると吸いきれないぞ。そして仲間の木々を伐採しているだろう。それでは今にとんでもないことになるぞ』と返してくれている気がする。不思議と木と対話している気になるのだ。花が咲いていたら『花さん、花を演じていてくれてありがとう。そしてきれいな花を見せてくれてありがとう。そのおかげで魂が癒されるよ。ご苦労様です』と。ニワトリには『毎日卵を産んでくれてありがとう。そのおかげでおいしい卵が食べられるよ。毎日ご苦労様です』と話しかけるのだ。たまにはみんなが嫌っているゴキブリにも話しかけるよ。そうするとゴキブリが『何で人間はもっとかわいい名前をつけなかったのだ。そして人間は我々を発見するなりすぐ殺そうとする。まったく損な役をもらったものだ。調べてみたら語源は「御器(ごき)かぶり」だったよ。昔、食べ物を盛るお椀(わん)を御器といったのだそうだ。そしてそれをも「かぶりつく」ので、その御器とぶりが合わさってゴキブリとなったということだ。まったくしょうがない。イメージが悪い。せめて似ている「こおろぎ」とまではいかなくとも「ごおろぎ」くらいの名前にしてほしかったよ。

しかし、われわれが人間に嫌われる害虫の仲間になっていることで逆に人間にも貢献しているよ。それは我々の存在が多くの人間の糧になっているということだ。それというのも、人間は我々を殺す薬を開発しそれを売って多くの人達が生活しているからなぁ。我々もコオロギのように美しい音色で鳴ける虫だったら、きっと人間に愛されただろうなぁ』と言っているような気がするよ。そして友達になった気になる。不思議だぞ。すべてのものに「ありがとうの魂=感謝魂」 で話しかけるのだ。そうすればすべてのものと友達になり一体感を味わうことができるようになる。自分の体の臓器にも「ありがとうの魂」で手を当てて話しかけてみるといい。「心臓君、いつも休まずに動いて血液を循環させてくれてありがとう」とか、「心臓君、この間は重労働でこき使ってごめん。こんどゆっくり温泉にでも連れて行ってあげるからな」とか、「肝臓君、この間は酒を飲みすぎてこき使ってしまった。すまん、すまん。それにしてもよく耐えて働いてくれてありがとう。今度ゆっくり休ませてあげるからな」というように話しかけると普段はまったく気にしていなかった臓器でも一体感が出てきて大事にするようになるから不思議だぞ。実はこの一体感という感覚が孤独を退治してくれるのだ。仕事でも何でもそうだが、自分のまわりには仲間や相手、対象物が存在する。その存在するすべてに「ありがとうの魂」で接し、一体感を創出することができればすべてがうまくいくようになる。

もちろん人間にもこの魂で自分から心を開いて話しかけていけば一体感が出てくる。ここで大事なことは再度言うぞ、それは「自分から心を開いて話しかける」ということだ。昔から「ありがとう」という感謝魂には不思議な力があり、魔法の魂と言われている。それはなぜかということだ。それはな、その魂に天(又は人の魂の中の純粋な良心である神性又は仏性の魂)が感応し自分とそのまわりのすべてのものとの一体感を創出してくれるからなのだ。すべてのものとの一体感の気持ちが出てくると、人間の魂は喜びというエネルギーで好転し、人間を明るく幸せに導くということさ。惣五郎さんもやってみるといい。何でもいいから感謝魂で接してごらん。部屋の中や自分の持ち物にこの魂を飾ったり貼ったりしてもいい。そうすると天が感応しまわりとの一体感の空気が生まれる。そうすればそこの空気はなごみ孤独は自然と解消し、まわりの人間関係もきっとよくなるよ。友達も増えるよ。孤独は不思議と吹っ飛ぶ。いじめなんかもなくなるよ。この地球の植物、動物、その他の生き物はすべて仲間であり、友達だ。元をたどれば同じ親から生まれた兄弟姉妹みたいなもんだからなぁ。

(12) 「生きる意味」その一

話は変わるが惣五郎さんよ、今自分に負けると「死にたい」という考えが勝つことになる。天の考えを読み取って自分に勝てばマイナスばかりの人間商売大赤字でも、前に言った「考え方」と「魂の持ち方」という武器でプラスという黒字にできるのも人間だ。天が惣五郎さんをなぜこの世の中に存在させたか。その天の考えを読み取らなければならない。わしは、天の考えは惣五郎さんに「今までの従来の漬物を改良して、まったく新しい味のおいしい漬物をこの世の中に誕生させてもらいたい」という考えだと思う。だから天はそのことに成功してもらいたいので惣五郎さんに様々な苦悩を与えて苦しめているのだよ。天は惣五郎さんに、惣五郎さんしかできないすばらしい役を演じてもらいたいんだよ。松を演じてほしいとは天は考えていないことは確かだ。ウサギでもない。蛇でもない。ナメクジでもない。今ここにわしの前に人間として存在しているということは人間としてすばらしい役割を果たしてもらいたいということは確かだ。それも私利私欲、自己中心の魂から離れて、世のため、人のためになるすばらしい役を演じてもらいたいのだよ。そのために生きる意味があるのではないか?」と言いました。この長々とした聖心の話を真剣に聞いていた惣五郎は「何でも感謝魂で接しろと言いましたが、それでは人間の病気を引き起こす病原菌にも感謝しろというのですか? 人間は最後病気で死ぬのですよ。それでは死さえも感謝しろというのですか? 」と聖心に質問してきたのです。それに対して聖心は「そうだ、すべてだ。死さえにも感謝するのだ。確かに死は悲しく、つらいことだ。しかし、これは生まれてきた以上避けて通れない宿命だ。しかし、この悲しくつらい死をプラスに考えると、死ぬこと、すなわち終わりがあるということを分かっているから一日一日の大切さが分かり、様々なすばらしい業績を上げることができるとも言えるのだ。人間は時間があるからいい仕事ができるかというとそうではない。時間が限られていると、死ぬまでにこの仕事だけは何とかしたいという気持ちが出てきて、集中できる。そうするといい仕事ができるということになる。逆にたっぷりと時間が与えられると、のんべんだらりとなりいい仕事ができない。時間はたっぷりあるのだから後にしよう、ということになり、結局何もできないということになる。逆にこの仕事は死ぬまでに何とかしなければならないという気持ちに火がつけばりっぱな業績を上げることができるということなのだ。逆に人間が死なない生き物だったとすると切羽詰った気持ちが生まれないのでいい仕事が出来なくなるということだ。それで死さえも感謝しなければならないと言ったのだ」と言いました。

そして続けました。「人間、寿命がくれば死んでいかなければならない。人間は年をとると免疫力が低下し、病原菌などが体を攻撃する。若いうちは免疫力があるのでこの攻撃を撃退できる。しかし、年をとるとそうはいかなくなる。それが自然だ。お釈迦様は人生を「生老病死(しょうろうびょうし)」と悟られた。これは真理だ。人間に生まれたということは、いつかは死ぬことを意味する。仏教用語で「生死一如(しょうじいちにょ)」という言葉がある。どっかで一度は聞いたことはあると思う。その意味は「生きることは死ぬことである」ということだ。生死にその境はないということだ。人生はあっという間に過ぎ去るものなのだ。わしのおばあちゃんが、死ぬとき枕元でこう言った「人生まばたき一回だった」と。まばたき一回は一瞬だ。人生はあっという間だったと言いたかったのだ。ここからが大事なことだぞ。だからこのあっという間の時間が大切になるということだ。このあっという間の時間を「どう生きるか」が最大の問題なのだ。だから人間最後は必ず死ぬから生きているときは、その死の問題を避けるのではなく、逆に正面から向き合って死の問題を解決して「より善く生きるために生きていく」ということなのだ。この世の中は善と悪だ。あっという間の人生を善で生きるか、悪で生きるかということだ。善玉になるか、悪玉になるかだ。善玉の役を演じるか、悪玉の役を演じるかということだ。悪玉で最後死ぬとき「善玉で生きればよかった」と後悔しても遅いのだ。「人生は善玉の役を演じて生きぬいて死ね」という考えが天の考えだ。それではなぜ天は善玉になれということを説いているかということだ。悪いことをすると虫にされるぞ、と前に言ったが、このことと関係している。

天はこの地球上の動植物を含むすべての生き物に様々な役を与えている。この役はどうして決まるかということだ。これは天が設計した遺伝子が関係している。この組み合わせによって天はなんでもできるのだ。例えば動植物の中に天敵から自らを守るためにまわりの環境と同じ色になる擬態能力を身につけているものもいる。また、虫を食べる植物もある。この虫を食べる植物は花の偽物を咲かせて、いかにもその中に甘い蜜があるように細かく演出し、虫を誘い込み、虫がその偽花びらの中に入ると花びらを閉じて虫を捕まえて食べるのだ。このような動植物の擬態能力はどうしてできるようになったかというと、それは天がそのものを天敵から守り、何とか生かそうとして遺伝子を気が遠くなる時間をかけて突然変異させてしまって設計を変更したからなのだ。これは第三者が客観的に外部から観ていないと説明できない設計変更なのだ。高度な芸当ができるテクニシャンであり、巧妙な詐欺師ということだ。相手をだますのだから、人間、顔負けということだ。人間が漁をするとき魚の習性を利用して一網打尽にして捕まえるのと似ている。これは人間が魚を客観的に観る能力があるからできることだ。動植物は自分で客観的に観ることはできない。第三者が客観的に観ないと説明がつかないというのはこのことだ。だから天がそこに登場するのだ。惣五郎さんのお袋さんが「悪いことをすると虫にされるぞ」と言ったことはまんざら嘘ではない。悪いことをすると天によって遺伝子の突然変異という設計変更という罰が当たるということなのだ。この設計変更によって天はなんでも創れる。今人間は必要悪ということで経済発展のために二酸化炭素をどんどん排出している。これは自然ではない。こんなことを長いあいだしていると、数百年か数千年後か数億年後には天がそれを観て人間の遺伝子を突然変異させて極端な話、別な生き物にしてしまう可能性もある。また、人間を食べる別な生き物を誕生させるかもしれない。自然を何とか生かそうとするのが天の考えだからだ。その考えにそむいて環境破壊していくといつか罰があたるということだ。今の人は罰があたるというと「そんなことない。科学が進んでいる現代で何が罰だ」と言って馬鹿にする人が多い。しかし、昔の人達が主張していた罰が当たるという考えは、まんざら嘘ではないと思う。きっと昔の人は科学的には分からなかったが、何か本能的に体のDNAが「悪いことをすると罰が当たる」と感じ取っていたのかもしれない。

だから環境破壊している今の人間の一つの自重自戒として受け止める必要があると思うのだ。天罰というのはいつか遺伝子の突然変異という設計変更によって天によっておこされ、人類が滅亡する可能性もある。だから天は「人生は善玉で生きろ、悪玉では生きるな」と言っているのだ。悪玉で生きていくといつかなんらかの罰があたるということなのだ。天が言っているこのことを惣五郎さんは読み取らなければならない。わしは天の考えを実行したいためにGFIT法を生み出したのだ。この方法は誰にでもできる簡単な方法なのだ」と言ったのです。それを聞いた惣五郎は「そうすると天は遺伝子の突然変異という設計変更で何でもできるのかぁ。悪いことはできないものだ。やっと分かった。天は観ているかもしれないという思いがしてきました。それにしてもGFIT法という簡単な方法によってはこんな私でも世の中のためになることができるとは驚きました、木や花、ゴキブリなどに話しかけるとは。私もそうしてみます。後で、聖心さんが発見したというGFIT法を教えてください。そしてその方法で魂を掃除し、善玉になって新しい漬物の製法を一から考えてみます」と突然言ったのです。聖心は前に「死にたい」と言っていた惣五郎の心が、「GFIT法で魂を掃除し、善玉になって新しい漬物の製法を一から考えて見ます」という善の考え方に変わっていることにすぐに気づいたのでした。そんなことに気づいた聖心は心の中で『惣五郎さんの魂に前向きな考えが出てきたぞ』と思いました。そして、もしかしたら自殺を思いとどめてくれるかもしれないと考えたのでした。

(13) 人生の主語を「自分が」から「天が(大局的観点)」に

 そんなことを考えていた聖心は惣五郎に「惣五郎さんはきっと今まで自分のことしか考えてこなかっただろう。わしも昔はそうだった。人のことも考えている思いやりのある人間と思っていたが、それは錯覚に過ぎなかった。それに気がついた。自分を見つめ直してみたら私利私欲、自己中心の我欲の塊の己を発見したのだ。それでわしは行き詰ったのだよ。自分が、自分が・・・・は、人生では視野が狭くなって、行き着くところは欲望の果てということになる。最悪の場合、悪事を働いて市中引き回しの上、張り付け獄門(死刑)ということになりかねない。そうではなくてこんどは人生の主語を「自分が」から「天が」にしてみたらどうだ。思い切って天との通信回線を引いてみたらどうだ。天の意思というものが読み取れるぞ。基本料無料、通話料無料だぞ。コストゼロだ。きっと視野が広がり、新しい境地が開けてくるぞ。そうなれば何をすれば世のため、人のためになるかが分かってくる。世の中には「そんなきれいごとで世の中生きていけない」と言う人もいるのも確かだ。しかしこれは、昔に通用した言葉だ。今の世の中のように何でもある時代では本物しか生き残れなくなったのだ。そして高い倫理観が求められている世の中になってきたのだ。それに加えて情報の発達によってごまかしがきかなくなった。そして何よりも高学歴社会になって人間が賢くなってきたということだ。本物か偽者かを見抜く力があるということだ。だから今までの私利私欲、自己中心の我欲の自分を捨てて、生まれ変わり自分を超えるのだ。これはちょうど我欲という「小なる魂という地上の乗り物(自分の有限の考え)」で運転(世の中を生きていくこと)すると、いろいろなものに衝突したり、トラブルなどに遭遇する。だから、小なる魂である地上の乗り物という有限の考えを捨てて、自分を超えた「大いなる魂という宇宙船(自分の考えを超えた無限の考え)」で操縦して宇宙(天の意思の世界)に出ると障害物がなくなるので衝突したり、トラブルなどに遭遇しないということなのだ。ここが危機脱却思考の一つの要(かなめ)だ。宇宙船(大いなる魂)になるためには天の意思(又は考え)というものをまずは読み取って生きていくということが大切だ。そんなことも考えて新しい漬物の研究を続けてみてはどうだ。そうすればおのずとどうすればいいかという答えが見えてくるぞ」と助言しました。

(14) 「生きる意味」その二

そんなことを助言された惣五郎は「いろいろと今まで分からなかったことをお聞きしましたが、だいたいのことは分かりました。しかし、世のため、人のためということが、いまいち、よく分かりません。もう少し分かりやすく教えていただけないでしょうか?」と惣五郎が言ってきたのです。これには聖心はびっくりしてしまいました。普通はそんなに難しいことではないと思っていたからです。聖心はこのことをどうやったら惣五郎に分かってもらえるのか、すぐにはなかなかいい考えが浮かびませんでした。しかし、しばらくして聖心は「惣五郎さんは最後、世を恨み、人を恨んで死のうとした。これはわしも若いときはそうだった。しかし、金を貸してくれなかったとか、馬鹿にして相手にしてくれなかったということで人を恨んだり、世の中を恨んだりすることが、間違っていたことにわしは人間一年生になって勉強し直して分かったのだ。それではなぜ世を恨んだか、人を恨んだかということだ。わしなりにそのことを真剣に考えてみた。そしてとうとう分かったのだ。それは世の中が何かを自分にしてくれないから恨んだのだ。人が何かを自分にしてくれないから恨んだのだ。わしがこんなに多くの問題を抱えて悩み苦しんでいるのに何もしてくれない世の中と人を、恨みという感情で責めたのだ。それはちょうど人から愛されるのを待っているということと同じことだということだ。人から愛されるのを待っていたのではいつまでたっても愛されない。まずは自分から人を愛さなければ人は愛を返してくれないと言うことだ。だから「世を恨み、人を恨み」を「世を愛し、人を愛し」にすればいいということが分かったのだ。自分の魂に愛が生まれればその対象を少しでもいい方向にしたい魂が生まれ、少しでも幸せにしたいという魂が生まれる。この原理が恨みを愛に変えるヒントになったのだ。これが天の考えというものだと気づいた。そうすれば世を愛すれば、少しでもいい世の中にしたいと考える。人を愛すれば少しでもその人を幸せにしたいと考える。そうすると世のため、人のためという答えはここにあるということがお分かりかと思うのだが。

例えば、お菓子屋さんが少しでもおいしいお菓子を作るために日夜研究している。これはおいしいお菓子を作って少しでもお客様に喜んでもらいたいという一心でお金を投資して研究研鑽しているのだ。このことは御菓子という食品でお客様を少しでも幸せにしたい、という魂の現われなのだ。そのほかの商売でもお客様に喜んでもらうために一生懸命お金を投資して研究研鑽している。これなどもお客様を少しでも商品というものを通じて幸せにしたいからなのだ。全国を、足を棒にして駆け巡って、いいものを探しているお店の買い付け人も、これも人のためだ。そのことが最後は結果的に自分の利益となって返ってくるのだ。あくまでも利益は最後の結果でしかない。いかにして他を利するか、それをまず徹底的に考えることが大切だということだ。これが真心というものだ。商売人や個人の中に「まずは自分」という考えをしている人も確かにいる。昔はそれでもよかった。しかし、今は何でもある時代なのでその考えは競争に負ける考え方になる。さっきの逆でお金を投資しないで何の苦労もしないで自分のことしか考えていない私利私欲、自己中心の商売人は、その魂をお客様に見透かされてそのうちに店じまいということになる」と聖心は惣五郎に言ったのでした。それを聞いた惣五郎は「うんうん」と言ったきり何も言いませんでした。実は惣五郎は心の中で『今までの自分とはまったく逆の人間になるということか? 確かに俺は新しい漬物を考えて人より儲けてやるという考えを一番にしていた。それが間違いだったとは』という思いがしてきました。そんな思いが惣五郎に生まれかけたちょうどよいころあいに聖心は話を続けました。「それではもう少し分かりやすく説明すると、この地球には昼がある。それではなぜ昼間の空は明るいか、惣五郎さんはお分かりか?」と惣五郎に聖心は変な質問をしました。すると惣五郎は突然また変な質問をされたことにびっくりして「お天道様(太陽)があるからだ」と少し面食らって聖心に答えました。

そしてすぐに聖心は「その答えは間違ってはいない。しかし、お天道様だけあっても空は明るいというわけではない。お天道様があるということが第一ではある。第二はこの地球には空気があるということだ。空気の中にちりや、ごみ、水蒸気がある。空気の中のものをひっくるめて世の中と人と思って聞いてほしい。昼間空が明るいのは空気中のちりや、ごみ、水蒸気がお天道様の光を受けて反射しているからだ。すなわち世の中と人に反射すると明るくなるということだ。惣五郎さんの今までの生き方は光を受ける側だ。お天道様の光を愛と表現すれば、そんな光という愛を世の中も人も誰一人として自分に向けてくれなかった。一番身近な女房、子供すらも条件が悪くなったとたんに手のひらを返したように光という愛がなくなった。挙句の果ては惣五郎さんを捨ててしまった。すなわち惣五郎さんのまわりにはお天道様がなかったのだ。そのために反射して明るくなれなくて暗闇になった。まぁ、それが普通なのだ。なぜかというと人間の煩悩はマイナスの煩悩がブラスの煩悩より圧倒的に多いからだ。だからマイナスの出来事に遭遇するとなかなかいいほうに考えられない。なんでも悪いほう、悪いほうへと考えてしまうのだ。そういう考え方が癖になってしまうのだ。

それでお天道様になれないのだ。本当は女房、子供だけでもお天道様だったら惣五郎さんは反射して明るくなれたと思うよ。ましてや他人はなかなかお天道様にはなれない。誰も金を貸してくれなかったのだからなぁ。世の中は人の不幸を喜ぶ人間も多い。人が幸せになるとねたむ人も多い。隣の家に蔵が立つと腹が立つとか、同期で入社した仲間がどんどん出世していけば、腹わたが煮えくりかえるぐらい嫉妬してしまうとか、現実自分のまわりで面白くないことはたくさんある。わしは若い頃短気ですぐに頭にきて人と喧嘩ばかりしていた。そのために多くのものを失ったよ。すぐに頭にくるのは得るものはない、ということだ。昔から短気は損気といっていいことは一つもない。あとは人に怒鳴られたり、怒られたり、叱られたり、頼みごとを断られたりして頭にきて腹の虫がおさまらず相手を殺したり、火をつけたりと何らかの攻撃をして相手にダメージを与えてしまう人もいる。これらは、短気は損気どころではなくなる。ここまでくると犯罪になり一生を棒に振ることになる。瞬間的に頭にきて我慢できなかった(又は良いほうに考えなかった)ばかりに支払う代償はあまりにも大きい。まぁ、これらのことはなぜそうなってしまうかということだ。それはさっきも言ったが、人間のマイナスの煩悩がはるかにブラスの煩悩より圧倒的に多いからだ。人間の悩はマイナスの煩悩が強いのだ。だから何かあると悪いほう、悪いほうへと考えてしまうのだ。なかなか良いほう、良いほうへ考えられない。だからなかなかお天道様(太陽)になれないのだ。そのために惣五郎さんは人を恨み世の中を恨んだ。わしも若いころそうなった。しかし、そうなったのでは人間は成長しないということだ。悪いほうに取るのではなく、すべてを良いほう、良いほうに受け取るのだ。良いほうに受け取るということはマイナスを逆にバネにしてがんばることだ。

短気を出して人と喧嘩したり、ダメージを与えたりするストレートのマイナスエネルギーを、別なプラスエネルギーに変換して外に出すことができれば、それがバネとなって自己を成長させてくれるのだ。逆にそのマイナスエネルギーを外に出さないで自己の内部に向けていくと自殺という行為にもなりかねない。最終的にわしがここで言いたいのはこのエネルギーの変換だ。これからの人生はお天道様の光を受けるほうではなくて、いろいろな人生のマイナスの出来事に遭遇したら、そのマイナスエネルギーをプラスエネルギーに変換して外に出すということをやってほしいのだ。その具体的なことが、自らお天道様(太陽)になって光という愛を出して、世の中と多くの人々にその光を当てて、世の中と多くの人々という空を明るくしろということだ。すなわちお天道様になって光という愛を出す人生を歩め、ということだ。これがマイナスエネルギーからプラスエネルギーへの大変換だ。それではこの大変換は、いったいどういうことかということだ。人生は考え方によって決まると前に言ったと思う。良いほうに受け取るプラスエネルギーにしていくには一つの考え方が必要になる。自分の人生の中で、もしマイナスの出来事に遭遇したら、最初に考えることは、なぜ天はこんなマイナスの出来事に遭遇させたのだろうか、ということを考えることだ。天は愛する人間ほど苦しめる意地悪な性格を持っている。それではなぜ天は愛する人間を苦しめるのかということだ。それは天の本当の意思を読み取ってほしいと思っているからなのだ。天は何とかしてすべてを生かそう、生かそうとするので、その苦しみには自分を成長させてくれるプラスの意味が必ずあるということをまずは読み取らなければならない。天は頭を使って自ら考えろ、というのだ。考えさせるところに親心がある。人間は考えなければ成長しないということだ。そして考えた結果、自分を成長させてくれるプラスの意味を読み取ることができればマイナスがプラスになるということだ。天の本心はプラスの意味として何としても読み取ってほしいということだ。お天道様になるには天の意思をプラスに読み解くことが必要になる。そうすればお天道様になれる。生まれ変わることが出来るということだ。

これが危機脱却思考の最終目標だ。世の中もお天道様のように光りという愛を出す人間がより多く必要なのだ。そうしないと世の中が真っ暗闇になってしまう。私利私欲、自己中心の我欲や、恨みや憎しみなどのマイナスの煩悩に満ち満ちた世の中になってしまうということだ。最後には牢屋(刑務所)が足りなくなってしまうということになりかねない。私利私欲、自己中心の我欲の魂は光という愛を出さないのでお天道様になることはできない。だから惣五郎さん、ごちゃごちゃいろいろ考えないで、結論は自ら人に光という愛を出すお天道様(太陽)になれということだ。無理をしないで自分ができるお天道様になれということなのだ。そうすれば神経衰弱も直る。じゃどうすればお天道様になれるのか? 簡単になれる方法がある。その答えが「魂のクリーニング法」のGFIT法を実践することなのだ。これを実践すればマイナスの煩悩を魂から追い出すことができる。そうすれば惣五郎さんの魂は即座にお天道様になる」と言いました。それを聞いた惣五郎はびっくりして思わずすぐに「はい、やってみます」と返事をしたのでした。聖心はそれを聞いて「やっと分かってくれたか」と安どの表情を浮かべながら惣五郎に言いました。惣五郎は、この話を聞いてはっきりと生きる意味が分かったのです。天の考えによって生かされているわけが「お天道様(太陽)になる」ことだと理解したのでした。そしてお天道様になるためには自分の中に光という愛を出すエネルギーの一部が現在ないということにも気づいたのです。それに気付いた惣五郎は聖心のように人間一年生になり、漬物のことや人間性を一から勉強し直さなければならないと強く決意したのでした。

惣五郎は聖心の話をすべて聞いて「聖心さん、私は今まで私利私欲、自己中心の我欲の塊の人間でした。自分の儲けばかりを考えていました。自分の魂の中に他を利する考えがありませんでした。あったと思っていたものが実は錯覚だったことにも気づきました」と聖心に言ったのです。それを聞いた聖心は「その我欲の魂を捨てることはそんな簡単な事ではないぞ。人間の魂の中に人間が所有の欲望が生まれて以来しっかりとこびりついて生き続けているのだ。内なる魂の最大の強敵だ。人間が戦争を起こす魂の親玉でもある。しかし、魂のクリーニング法のGFIT法で魂の持ち方を変えれば退治することができる。GFIT法というのは人類共通の大局的な人間性というお天道様が人のミラー細胞にインプットされることだ。これでインプットすればマイナスの煩悩は頭の中から逃げて行く。そうすれば頭の中はプラスの煩悩に満たされ、結果的にこの世が明るい極楽になる」と言いました。それを聞いた惣五郎は「死ぬのは辞めました。生きて、生きて生き抜きます。自分の命を世のため、人のために燃やし続けます」と言ってくれたのでした。それを聞いた聖心は「そうか、それはいいことだ。今惣五郎さんがこれほどに話しをしても死にたいと言ったらどうしようかと思ったよ。生きる水を飲んでくれて安心したよ、ありがとう」と惣五郎に言いました。

そんなことを惣五郎に言った聖心は「それでは惣五郎さん、早速日光の代官所に行って借金の問題を相談しに行きましょう。そしてその問題の解決の見通しがついたら、日光の居酒屋でわしがおごるから一緒に酒でも飲もうじゃないか。そして馬鹿話でもして今までの心の垢を落とせ」と言いました。それを聞いた惣五郎は心晴れはかに「ありがとうございます」と聖心に言ったのでした。そして二人は山を降り日光へと向かったのでした。
人間の真価は過去の魂ではなく、未来の魂で決まる
Man’s real value is decided by the soul of the future instead of the past soul.

(15) 惣五郎のその後

その後、惣五郎は聖心の人生危機脱却思考のGFIT法を裸一貫で実行し、最強の魂を手に入れ、漬物と人間性を一から勉強し直して、ついにすばらしい漬物を作ることに成功しました。日光の人達は惣五郎がすべてを失っても新しい漬物の研究をしているのを見て「惣五郎さんは本物だ。たいしたものだ」と言ってほめるようになりました。以前のように馬鹿にするものは一人もいなくなりました。中には、惣五郎のあまりの熱心さにほれ込んで新しい漬物に投資する者も出てくるようになりました。そしてとうとう惣五郎は聖心と出会ってから3年目に今までと違ったおいしい漬物を作ることに成功したのです。成功した惣五郎はその漬物の製造販売を自分一人で独占しないで日光のすべての漬物屋で組合をつくり、日光の新しいおみやげとしてみんなで作って販売することになったのです。そしてあまりのおいしさに宇都宮の業者に目をつけられ、その漬物は全国へも販売されました。もちろん惣五郎は漬物組合の組合長となり、その新しい漬物の製法をみんなに伝授しました。そのお返しにみんながお金を出してすべてを失っていた惣五郎に新しいお店を作ってやりました。そして惣五郎は日光中の人々が抱えている様々な悩みなどの相談も受けるようになり積極的に助言したりしました。どんな些細な相談にも乗ったのです。惣五郎は最後には日光のお天道様(太陽)になったのです。そしてみんなにも「お天道様になれ、お天道様になれ」と口癖のように言っていました。その結果、日光は人情味のある明るい観光地になったとさ。     終わり                 

(16) 著者から皆様へ

悩みなどの苦悩は人生の一つの危機です。現代はうつ病などの心の病が急増しています。複雑な社会と人間関係、不況や孤独、働きすぎと言った様々な要因がその原因です。そんな危機的な社会から身を守り、前向きに生きていくには自ら太陽となって世の中を少しでも明るく照らし、良くしていこうという前向きな考えが最大の特効薬です。現代の様々な悪環境に負けてはいられないのです。この物語が皆様の将来を明るいものにしていくのに少しでもお役に立てれば幸いです。人生の危機脱却のキイワードは「良い思い」と「良い考え方」にあるということです。

身を守る一つの方法・・・「逃げ場を設けておく」(趣味の世界、過労の時は病院に緊急入院等)

 もし、私たち人類の目の性能が電子顕微鏡のような高性能だったら人類は生きていけるでしょうか。空中に漂っているウィルスや、そこら中にいる、ばい菌が見えた場合、恐ろしい世界が広がることでしょう。人類の目の性能が電子顕微鏡のような高性能でないおかげで人類は生きていられるのではないでしょうか。今、世界では民族や宗教、思想の違いによって様々な争いが起きています。これらは人類が違ったところを認識できる高い能力を持っているために起きる問題です。違ったところに顕微鏡を当ててよりいっそうその違いを理由に相手を拒否したり、攻撃したりします。それは違ったものばかりに固執し、そこだけに目を奪われるからです。そうなると憎しみや恨みが心に醸成されていく場合があります。これではなかなか人類はみんな仲良く生きていくことができません。前の人類の目が電子顕微鏡だったらと同じようなものです。それではどうしたらみんな仲良く生きていくことができるのでしょうか。その答えの一つが「人類共通の大局的な人間性」を自覚しあうということです。このことはちょうど宇宙船から地球を見ているようなものなのです。地上にいれば様々な違いがはっきり分かります。しかし、高度の高い何の障害物もない宇宙からこの地球を見れば「人類はみんな同じ地球という星に生活している同じ仲間だ」という認識に立つことができるのです。地球はただ陸と海に別れているだけで国境線はなく、細かいものは見えないことがはっきり分かります。このことは人類という星を宇宙から見ると「大局的な人間性」という星の輪郭だけがはっきり見えて細かいものは見えないのと同じなのです。だから地上から見える違いは、違いとして認め合い、お互い良いところを観ていくという大いなる魂の大局的人間観を持って人間を観ていけば、新たなる人類の歴史が始まるのではないでしょうか。その人類の違ったものに固執しないで、人類が共通に持っているすばらしい大局的な人間性に目を向ければ、必ずやすべての民族とすべての宗教、思想を超えて人類の魂が一体感を感じられるようになっていくのではないでしょうか。

これは夢物語かもしれませんが「感謝魂であるメルシーちゃん」はそんな人類のロマンを表現したものなのです。人間の科学はどんどん進歩しています。それに比べて精神も少しずつではありますが進歩しています。最初は本能のおもむくままの野蛮精神から出発しています。しかし、だんだんと理性というブレーキが働いて今の人間の精神ができています。本能のおもむくままの野蛮精神というのはマイナスの煩悩が本来人間は強いのでそれはしごく自然だったのです。そのために戦争などの多くの不幸が生まれ数多くの人間が犠牲になりました。しかし、現在も人類は戦争や紛争などの争いが絶えません。そしてまだまだ多くの火種が残っています。そんな世界の中で「新しい概念(人類の夢と希望を創造する魂)」が、争いを起こすマイナスの煩悩を少しでも薄めて、理性というブレーキを効かせ、個人も含めた人間同士のトラブルなどという不幸を少しでも防いでくれる魂の防波堤になってくれればと思うのです。トラブルの親玉はもちろん戦争です。人類の理性の進歩には、過去数え切れない多くの命が犠牲となりました。もう一度そのことをご一緒に考えて「人間が発するすべては魂から出ずる」ということに思いをはせてみませんか。

くれぐれも皆さん、相手に顕微鏡を当てて人の欠点ばかりを探さないでください。これでは一体感は醸成されません。ただし、論戦などの場合、顕微鏡が必要になります。大いに戦って実りあるものにしていきましょう。

※ 悩みはまずは相談です。一人で抱え込まないで人に話せば、荷は、少しは軽くなります。相談するということは大変大切なことです。まずは自分の心を開いて相談しましょう。きっと解決の糸口がみつかります。悩みや迷い、心の病などは一つの人生の危機です。そんなとき、「複雑な地球(複雑に考える自分)を捨てて太陽になりましょう」。そうすればきっと道が開けます。GFIT法であなたの魂を純粋な良心(=神性又は仏性の魂)に目覚めさせればきっと道が開けます。太陽になるということは純粋な良心を取り戻すことなのです。この物語を読んでいる方で、今自殺を考えている方に言いたい。それは天が「あなたは将来世のため、人のためになる人間なので死んではいけない」と言っているということです。この物語に出会った方は、きょうから天との縁を大切にしてください。天はあなたを救って幸せにしたいと考えています。天とか神とか仏などというと毛嫌いする方もいます。しかし、それを信じるとか、信じないは別にしても、こういう大いなる者を自分の思考のなかに取り入れると考え方の世界が広がります。考え方が広がるということは「心の財産」が増えるということなのです。「心の財産」が増えるということは、あなたの人生の裾野を広げてくれるということです。裾野を広げてくれるということは人生の中でどんなマイナスの出来事に遭遇してもびくともしない安定した人生を歩めるということです。もう一度裾野が広い富士山を思い出してください。富士山は貧弱な山ではないのです。それは広大な裾野があるからです。人間も人生の広大な裾野という「心の財産」を持つと人生の危機のときにそこから脱却する知恵を提供してくれるのです。終わり ※天、神、仏を、自然さん宇宙さんと考えてもいいのです。自然さんや宇宙さんは人間より先輩です。人間は後輩にあたります。後輩は先輩に敬意を表すのが普通です。人間はこれらの先輩の気の遠くなるような長期間のお膳立てによって誕生し、今地球上で存在しています。ですから人間はそれらの先輩に恩もあります。このように考えれば天、神、仏を毛嫌いしている方でも少しは受け入れてもらえるのではないかと思うのです。この機会に己の存在というものの原点を考えてみませんか。

お金も大切、学校の勉強も大切、実業の勉強も大切。これらの財産は魂の広大な裾野の「心の財産」があってこそ真に生かすことができるのです。そしてどんな嵐にも耐えうる盤石な人生にしてくれるのです。逆に魂の裾野に「心の財産」がないと人生は砂の上に家を建てたようなものになってしまいます。ちょっとした人生の嵐にも耐えられず壊れてしまう可能性があります。「心の財産」は最終的には「新しい人間観」をあなたの心の中に醸成し、あなたという人間を内面から輝かせてくれます。