リンク集


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あなたの問題解決に役立つと思われるサイトをリンクしました。



@ 日本弁護士連合会(法律相談、借金問題等)

A 日本司法書士会連合会(借金問題等)

金の問題は法律の専門家で解決しよう!!

金の問題で命を落とすな!!
     
※もしご相談される場合は悪徳弁護士等もいますので弁護士会等でよく調べてからの方がいいと思います。
B 生きる(国の自殺防止サイト)  
     
C 全国クレジット・サラ金被害者連絡協議会
(多重責務者の救済方法等)
 
     
D 警察による犯罪被害者支援ホームページ
(各都道府県警察の被害相談窓口等)
 



プラス思考を選択せよ!!

(人生を勝利と成功に導く哲学)

◎ 問題につぶされるのではなく、その問題に立ち向かい、それを逆にバネにして人間的に大きく成長していくところに人生の面白味(おもしろみ)があるのです。

重要
・・・・

これからのあなたの人生の中で何かの問題や悩み(いじめ含む)に直面した時の考え方のコツ
[問題点を0(ゼロ)の位置とする]

決して一人で問題、悩みを抱え込まない。
信頼できる人に相談する
 

インフォメーション(HP内トップページを表示)

索引  (興味のある所が簡単にみられます)


 
上記の左側のマイナス思考は無視して下さい。問題、悩みが発生したときプラスの方向へ考え方を変える事ができれば解決の方向へ向かいます。このホームページには考え方をプラスの方向に変えるコツの一部を紹介しています。
何回も読んでそのコツを発見して下さい。
問題、悩みが発生したときのキイワード=明るい考え方に方向転換
(苦にしない、気にしない、くよくよしない)

(いろいろマイナスの出来事に遭遇したら”まあ、何とかなるさ”と楽観的に考える習慣をつけよう!)
何事も敏感にならないで図太く、鈍感に生きようではないか!!
どんなことがおきても平気で生きよう!!



(人生丸の船長はあなたです。この船はコンピューターによる自動操舵で航行していくのではありません。あなたの''心,,という制御装置で航行していくのです。その装置の性能をアップさせ、無事にゴールするには''心を磨き、鍛える,,しか方法がないのです。)

人生上の様々な困難、逆境、トラブル等は表面上だけ見ればマイナスのことのように見えますが、実は「新しい人生の価値を発見する大きなチャンスでもある。」ということがいえるのです。自分を見つめ直す絶好のチャンスでもあり、あなたの潜在能力を発見することができる可能性を持っています。すなわち、古い自分を捨て、新しく生まれ変わることができるチャンスでもあるのです。「生まれ変わる」キイワードは「考え方」にあります。ただ単に、マイナスの面ばかりにとらわれないで、そこに隠れているプラスの価値を発見してください。
この機会に主体性を持った人生へ

※ついつい人間は「俺が(私が)、俺が(私が)・・・」となりがちです。自分の考えは大切なのですが、あまりにも自己中心的になってしまうと本質を見失うことになります。注意してください。


引きこもり息子の甚五郎

優しく思いやりのある人間になる方法

世界一こころ豊かで挑戦力のある元気な日本を創ろう!!

塩原温泉の温泉宿「もみじ屋」の「損だべぇー娘のお竜さん」の問題を解決した修行僧の聖心は次の宿泊地の日光へと急いでいました。日光では大きな問題が待ち受けているのでした。聖心は、はたしてどんな方法でこの問題を解決するのでしょうか? 尚、この物語はすべてフィクションです。
※この物語には、やってはならない過激的な行為が表現されています。この部分は絶対に真似をしないでください。注目してもらいたいのは「修行僧聖心」と「甚五郎」との間に交(か)わされる会話の内容です。

引きこもりに関する一つの見解                 作者 児玉春信

塩原温泉を出発し、途中で「損だべぇー娘のお竜さん」らと別れた修行僧の聖心は日光へと向かっていました。街道の途中の村々では相変わらず子どもたちが聖心に向かって「この乞食坊主あっちへ行け!! あっちへ行け!!・・・・」と言っては石を投げつけて馬鹿にしていました。そんな子供たちに聖心は「人を見た目で馬鹿にすると天罰が下るぞ!!」と怒鳴っていました。それを聞いた子供たちは「うちの母ちゃんが世の中で一番大事なのは金だ、と言っていた。金を持っている人間が一番偉いんだ!! 天罰もくそもねぇ!!」と言い返してきたのです。聖心はそれを聞いて「世も末か!?」と心の中で思いました。そしてすぐに子供たちに「この馬鹿やろう!! 金(かね)は月と同じだぞ。満ちたり、欠けたりするぞ。しかし、そうはいっても金も大切だが、まず人間は月より太陽にならなければならないんだ。ダイヤモンド魂をもたなければならないんだ。うちへ帰ったら母ちゃんにそう言っておけ!! 分かったか!! そしてなぁ、お前たちがやっていることはすべて天が記録しているのだぞ!! 天を馬鹿にするものでねぇ!!」と言い聞かせていました。そんなことを言っている間にあたりは少し暗くなってきました。聖心は日光の温泉宿へと急ぎました。

新しい人間観    「心の毒消しはいらんかね〜〜」GFIT法のメリット

修行僧の「聖心」、日光に到着

 日光に着いた聖心は「さてどこの宿に泊まろうかなぁ?」と思ってあたりをきょろきょろと見回していたら突然大きな声がしてきました。「俺がこんな人間になったのは父ちゃん、母ちゃんのせいだ!! 2人とも死んじまえー!!」という大きな声が聖心の耳に入りました。聖心はただ事ではないと思い、その声のするほうへと行って見ました。そこは「イロハ屋」という温泉宿でした。そして恐る恐る「こんばんは、何かあったのですか?」と言ってその宿の玄関に入っていきました。するとその温泉宿の主人が出てきて「いらっしゃいませ。ようこそおいでくださいました。おーい、お菊や、お客様だぞ。足を洗ってやっておくれ」と言いました。すぐにその主人の女房のお菊が来て聖心の足を洗い始めました。聖心は「まだ、ここに泊まるかどうかは決めていませんでしたが、きょうはお世話になることに今決めました。ところでさっき大きな声がしたのですが何かあったのですか?」とお菊に言いました。お菊は「お坊さんだからおはなししますが、実は一人息子の甚五郎がおりまして、その息子が大きな声を出したのです。いつも近所に迷惑をかけています。どうしようもない引きこもり息子に育ってしまいました。正直いって手を焼いています」と足を洗いながら聖心に語りました。すると聖心は「詳しいことは分かりませんが尋常ではなさそうですね。もしよろしかったら夕飯を食べたあとに詳しいことを聞かせてくれませんか。こんな乞食坊主ですが、もしかしたら力になれるかもしれません」とお菊に告げました。それを聞いていたお菊は「そう言っていただいても初対面だし、それにうちのことですから。でも一応主人と相談してみます」と言いました。それで聖心は「分かりました」と言って自分の泊まる部屋へとお菊に案内されて行きました。

甚助とお菊が息子のことを相談

 温泉にゆっくり入って夕飯も食べ終えて横になって休んでいると、そこの主人とお菊が聖心の部屋へやってきたのでした。主人が「お休みのところ誠に恐縮です。私はここの主人の甚助と申します。これは私の女房のお菊と申します。お菊から相談を受けまして、あなた様にいろいろと相談してみようということになりましたのでお尋ねしました」と聖心に言ってきたのです。それを聞いた聖心は「そうですか。こんなわしでもよければお力になれるかもしれません。それにしても甚助殿、日光もいいところですね。イロハ坂からの景色はすばらしいというではないですか。それに華厳の滝という実にすばらしい滝もあるし、上州へ行くとき見ていこうと思っております。それにしても温泉もいいし、人情もあり料理もうまい。女の人もきれいだ。言うことなしですねぇ。ところでわしも最初びっくりしてしまったよ。いきなり、死んじまえーだからな。まぁ、それで縁があったわけなんだが。どうしたというのですか?」と甚助に話しました。甚助は「その前に、お客さんは旅をしながら修行しているお坊さんですか?」と言ってきたのです。それを聞いた聖心は「すまん、すまん、自己紹介が遅れました。そうです、わしは全国を旅しながら修行している修行僧の聖心と申します。世の中も荒れてしまいまして、何でも金、金、金の世の中になりましてねぇ。途中で会う子供たちでさえ金のことを言ってます。それに加えてやたらと自らの命を自分で絶つ人間も増えましてねぇ。こんなすさんだ世の中をこの目で見てみたくなりまして旅をしている者です。着ているものは汚いですが勘弁してください。金がないもので新しいものを買うことができないのです。まぁ、こんな者ですが縁があったと思って何でも話してください」と言いました。それを聞いていた甚助は「そうだったのですか。分かりました。それでは詳しいことを女房のお菊のほうから話してもらいます。お菊、聖心さんに息子の甚五郎のことを詳しくお話ししておくれ」とお菊に言いました。それを聞いていたお菊は「はい。分かりました。実は私の家は5人の男の子供がいたのですが、4人小さいときに死んでしまったのです。息子の甚五郎は末っ子です。そのために大事に、大事に育てました。そして跡取りは甚五郎なので18歳のときに那須の那須温泉の大きな温泉宿に板前の修行に出したのです。ところが半年もしないうちに何があったのかは分かりませんが、突然うちに帰ってきたのです。何とか一人前になってもらおうと思っていたものですからびっくりしてしまいました。詳しいことは何一つ話さないのです。それ以来うちに引きこもってただ自分の部屋にいます。時々、起きてきては「こんな俺になったのは父ちゃんと母ちゃんのせいだ。2人とも死じまえー!!」と怒鳴るのです。主人とわたしを責めるのです。そして時々暴れます。部屋の中はしっちゃかめっちゃかです。時々私が掃除をしています。一人でできないのです。大きな声を出すものですから世間様に申し訳なくて。本当に困っています。何かいい知恵はございませんでしょうか?」と聖心に話しました。それを聞いていた聖心は「そうですか。それはご心配ですね。最近甚五郎さんのような若者が多いのです。若者だけではなく30代から50代にかけてもそんな人が増えているのです。全国を旅しているのでそんな情報も入っています。困った問題です。ところで今まで甚五郎さんは何か問題を起こしましたか?」と甚助に話しかけました。それを聞いていた甚助は「板前に修行に行く前にやたらとお店から何かを買ってはお店に金を払わないことがありました。そのたびに私が店に謝りにいってお金を払っていました。そんなことがありました」それを聞いていた聖心は「うーん。そんなことがあったのですか。ところで子供のときに何か問題を起こしませんでしたか?」とまたもや甚助に聞きました。すると甚助は「寺子屋に読み書きを習わせているとき、よく忘れ物をしたのでうちのお菊が少し離れている寺子屋までその忘れ物を届けに行ってました」と言いました。聖心はすぐに「うーん。そうですか。そんなことをしていたのですか」と一言いったきり黙ってしまいました。しばらく沈黙が続きました。そして突然聖心が「2人に確認したいのですが、子供の頃2人で甚五郎さんをかわいがりましたね」と言ったのです。それを聞いた甚助は「はい。4人も死んだものですから、それは、それはかわいがりました。何でも望むものは与えました」と聖心に返答しました。それを聞いていた聖心は「まあ、この引きこもりというのはなかなか難しい問題なのです。一面的に考えられない問題なのです。しかし、今、お話を聞いて甚五郎さんの場合はどうも親の育て方に問題があったように思えてならないのです。甚五郎さんの自立心や責任感をことごとくつぶしてきたのではないのかと。子供がかわいいのは分かります。かわいがらないとだめなことも分かります。植物は肥やしをやりすぎとだめになってしまいます。人間も植物と同じで愛情という肥やしをやりすぎると育たないのです。自立心や責任感が育たないということです。宇宙の法則というのはそういうものなのです。少し厳しい環境のほうが植物は自らの力で栄養を吸収しようとがんばるのです。その結果しっかりとした根になり丈夫な植物に育つのです。人間の精神もそういうものなのです。雪の多い北国の木は材質がしっかりしてます。それは厳しい風雪に耐えた結果そうなるのです。逆に南の木はその逆です」と言いました。それを聞いていたお菊は「それではどうすれば甚五郎は一人前になることができるのでしょうか?」と聖心に質問してきました。聖心はしばらく考えて「うーん。きょうはここまでにして一晩考えさせてください。明日どうするかお話します」と2人に告げました。それを聞いた甚助は「分かりました。よろしくお願いします」と聖心に懇願したのでした。そして2人は聖心の部屋から出ていきました。

自分たちの部屋へ戻ったお菊は甚助に「なんだかあのお坊さん大丈夫かしら。姿かたちをみたらそんな疑問が湧いてきわ。あんなどこの馬の骨かも分からないお坊さんに大切な一人息子のことを託して本当に大丈夫なのか、心配になってきました」と言いました。それを聞いた甚助は「言葉に気をつけなさい。人は見た目ではありません。話を聞いていたのですが、まっとうな話だと思いました。間違ってはいないように思います。本当は私たちが間違っていたのかもしれません。ここは聖心さんにお任せするしか道がないようだ。聖心さんを信じるのです」とお菊に言い聞かせました。それを聞いたお菊は「そうですね。あとは方法が浮かびませんものね」と言いました。そして2人は明日の朝食の仕込みをして風呂に入り寝ました。

聖心は一人悩んでいました。塩原温泉のお竜さんはうまくいったが、果たしてこのうちの、せがれの引きこもり問題はうまく解決するかどうか自信がなかったのです。引きこもりは複雑な問題がからんでいる場合が多いので単純な発想ではなかなか解決しない問題だと分かっていたので、聖心の苦悩は深まるばかりでした。そのためなかなか寝付くことができませんでした。しかし、一つの考えがよぎりました。ある一つの考えに賭けてみようと思ったのです。そして寝酒用の日本酒を少し飲み、安心したのか自然と眠込んでしまいました。

聖心、遂に息子の甚五郎を引き受ける決断を下す

夜が明けました。朝食も終えて、自分の部屋に休んでいると甚助とお菊がやってきました。そして開口一番甚助が「聖心さん、何か良い知恵は浮かびましたか?」と言ってきたのです。それを聞いた聖心は「まあ、お2人とも座りなさい。まずはお茶でも飲みましょう」と言って聖心自ら2人にお茶を出しました。二人は恐縮そうにそのお茶を飲みました。しばらくすると聖心は「この問題はなかなか一筋縄では解決できません。お2人に覚悟を決めてもらわないと取り掛かれません」と言ったのです。それを聞いたお菊はびっくりした様子で聖心に問いただしました「覚悟とはどういう覚悟ですか?」と。それを聞いた聖心は「生きるか死ぬかの覚悟です」ときっぱりと言ったのです。その言葉を聞いた2人はびっくりしてしまいました。そして顔を見合わせてしばらくそのままでいました。そして甚助が「そんな大げさな問題なのですか?」と言ってきました。すると聖心は「そうです。甚五郎さんの一生の問題です。そしてこのイロハ屋の将来の問題です。あなた方はきのう聞いた限りでは三つの間違いを犯しています。一つはお金の問題です。甚五郎さんがお店に支払わなかった代金を代わりに支払ったこと。それと忘れ物をしたとき、お菊さんが持っていったこと、それと甚五郎さんの部屋の掃除です。この三つです。まずお金を支払わないと世の中ではどうなるのかということを、身をもって知らしめる必要があったのです。支払わなかったお店から奉行所に訴えてもらい甚五郎さんを捕まえるべきだったのです。あなたはそれではかわいそうだ、と思われるかもしれません。しかし、そのかわいそうだ、かわいそうだ、というのが甚五郎さんをますます図に乗らせ、真実を知る機会を奪ったのです。そして親をなめてしまう人間にしていったのです。それでだめになったのです。お金を支払わなければ世の中というのはこういうことになるのだぞ、という絶好の教育の機会をつぶしたのです。それと忘れ物ですが、これも自分で忘れたのだから甚五郎自身に取りにこさせれば良かったのです。これも自分の責任という自覚を育てる機会をつぶしてしまったのです。次に部屋の掃除です。そんなものは本人にやらせればいいのです。どんなに汚れても決して親が手を出してはいけません。自分の部屋は自分で掃除をさせるのです。仮に蛆(うじ)が湧いても手を出してはいけません。その中で生活させるのです。掃除をしなければどうなるのかということを体験させるのです。この毅然とした親の態度と覚悟が大切です。最後は親が何とかしてくれるだろうという甘えがあるのです。これでは自立心も自主性も育ちません。厳しい言い方かもしれませんが、こういう細かいところが大事なのです。要なのです。ただかわいそうではだめなのですよ」と2人に諭しました。それを聞いていた二人は肩をがっくり落としてしまいました。そして甚助が「聖心さん、さっきの覚悟ですが、もう少し詳しくお願いします」と言いました。すると聖心は「甚五郎さんの命をわしに預ける覚悟ということです。きのうきょうと二日だけの付き合いですがこんな乞食坊主に大切な一人息子の命を預けることができるかどうかということです。すべてをわしに任せてもらえるかどうかということです。仮に甚五郎さんが途中で死んでも奉行所に訴えないということです。一筆書いてもらうということです。それで生きるか死ぬかと言ったのです」ときっぱりと甚助に言いました。それを聞いたお菊は「なんだか怖くなってきました。聖心さんそんな荒っぽい方法で本当に大丈夫なのですか?」と質問してきました。すると聖心は「いや、時には荒っぽいこともやるかもしれませんが、基本はそうではありません。甚五郎さんは何も分かってはいないのです。親のありがたみや、食べ物のありがたみ、空気のありがたみ、世の中のありがたみ、今生きていることのありがたみ、金のありがたみ、この家に生まれたありがたみ等など、数え上げればきりがありません。とにかく何も分かっていないということが甚五郎さんの心をだめにしている原因だとわしは思うのです。もしかしたらわしの見当違いかもしれません。しかし、わしの経験からするとどうもそんな気がしてならないのです。人間はありがたみが分かったとき、一つの悟りを得るのです。昔わしの同僚で檀家から少しの野菜をもらってきては捨てていた不届き者がいたのです。少しの野菜では心から喜べなかったのです。この者は少しの野菜のありがたみと、檀家のまごころというものがまったく分かっていなかったのです。おそらく小判だったら捨てなかったでしょう。しかし、いくら小判でも少なければきっと不満を言ったでしょう。少ない野菜でも人からもらったら心の底から感謝できる人間にならなくてはいけません。人がくれた物ではなく、その人の目には見えないまごころにまず喜びを感じなければなりません。そしてまごころという価値が付いている野菜のありがたみを心から分からなければなりません。ありがたみやまごころというのは目には見えないものなのです。この目には見えないものの価値が分からないと人間はだめになるのです。その野菜を捨てた不届き者は最後にはだめな人間になってしまいました。今は島流しの刑に処せられて八丈島にいます。一生そこから帰ってくることはできません。人間はありがたみを忘れると精神がだめになるのです。わしは人間をまず見るときはそこのところをよく見ます。そこが要だと思っているからです。ですから基本はそういうところにおきます。しかし、時には肉体もいじめなければなりせん。百姓のせがれで、引きこもっている者はいません。彼らは鍬(くわ)を使って朝から晩まで田んぼを耕しています。全身の力を使い、働いているのです。そして夜は酒を飲んでぐっすり寝るのです。ですから肉体労働は人間の精神にはいいのです。楽をすると人間の精神は軟弱になると思っています」と言いました。すると甚助は「なるほど。少しは分からないところもありますが、なかなか良い考えではないでしょうか。覚悟がいるということが良く分かりました。それで具体的には私たちはどうすればいいのでしょうか?」と質問してきました。聖心はすぐに「具体的にはこの宿屋にわしと甚五郎さんの二人で住むということです。お二人はこの家から出て行き、どこかで借家を見つけてこの宿屋の奉公人になってもらいます。主人は甚五郎さんです。すべて甚五郎さんに任すのです。何があっても決して口を出してはなりません。ここが肝心です」と返答しました。それを聞いていたお菊は「私たちがここから出て行くなんて何か変です。甚五郎が出て行けばいいのです。そしてここへ通ってもらうのです。それではだめなのですか?」と聖心に聞いてきました。すると聖心は「それではだめなのです。宿屋の経営がいかに大変なものかを身をもって分かってもらうためには主人になってもらわないと分からないのです。そしてお2人が今までいかに苦労していたのかということを心の底から分かってもらう必要があるのです。わざと苦労させるのです。苦労しないと人間の魂は磨かれません。楽を選択していくと魂は錆びる一方なのです。ここも要です」ときっぱりと言いました。そして「ここは鬼になってもらわないといけません。あなた方は何か勘違いをしていたのです。優しい愛だけが愛だと思っていたのです。愛には厳しい愛も必要なのです。突き放す愛も必要だということです。この手綱(たづな)を使わないと人間がだめになるのです。何でもかんでも至れり尽くせりではだめなのです」と少し語気を強めて言いました。それを聞いていた甚助は「お菊、ここは一つ聖心さんを信じて任せてみようじゃないか。どうも私たちは聖心さんの言うとおり何か勘違いをしていたように思えてきたよ。大変なことだけど腹をくくろう」と言いました。しかし、お菊はなかなか合点がいかない顔をしていました。そしてお菊が「聖心さん、きょう一日考えさせてください。頭の中が整理できません。主人と2人で相談してみます」と聖心に言ったのです。それを聞いた聖心は「分かりました。きょう一日考えてください。無理にとは言いません。このやり方はお二人の承認と協力が必要です。よく話し合って決めてください」とお菊に言いました。そんなことで一応話は終了したのでした。結論は明日に持ち越されました。

(ここでちょっと一服コーヒータイム)  商品コンセプト

メルシーちゃんはあなたの人生の応援キャラクターです

 部屋に戻った二人は少し疲れたので横になりました。そしてお菊が「大変なお坊さんに縁がありましたねぇ。こっちが家を出て行くなんてどうも理解できません」と甚助に言いました。すると甚助は「いや、理にかなった考え方かも知れんぞ。今まで何の苦労もしてこなかった甚五郎にはちょうどいい機会かもしれない。聖心さんの言っていることはまんざら間違ってはいないと思えるのだ。お菊よ、ここは聖心さんの言うとおりにやってみないかい?」と言いました。するとお菊は「そうですねぇ。ここは天が与えた試練と思って聖心さんにお任せしてみるのも一つの手かもしれませんねぇ」と言いました。甚助は「よし、決まった。甚五郎には今晩伝えよう」と言って、二人は少し疲れたのでそのまま昼寝をしてしまいました。

そんなことが進行しているということも知らずに、甚五郎は部屋の中で悶々としていました。そして時々奇声もあげていました。俺がこうなったのは親が悪いのだ、世間が悪いのだ、生まれてきたのが間違いだったんだ、那須温泉の板長のやろう、偉そうに威張りやがって、ちくしょう!! 等などと自分の心など一つも省みず、常に人のことをこのように悪く思っていました。そうなのです、甚五郎はすべて俺がこうなったのは俺が悪いのではなく、自分以外のものが悪いのだ、と考えていたのです。その考えから抜け出すことができなかったのです。

夜になりました。甚五郎が甚助とお菊に呼ばれました。甚助が「甚五郎、実はなぁ、明日からわれわれ2人はこの家から出て行くことになった。ご飯もすべて自分ひとりで料理して食べるんだぞ。お前にこの宿を任すことになったのだ。お金も全部任す。ただし、今お泊りになってる聖心さんが、お前の面倒を見ることになっている。すべて聖心さんの言うことをきくのだぞ。分かったか?」と言ったのです。驚いた甚五郎は「えー!! 一人で全部やるのか?」と甚助に言いました。すると甚助は「母ちゃんと父ちゃんはこの宿の奉公人として毎日通う。ただし何が起きても口は絶対に出さないことになっている。お前がすべてこの宿を仕切るのだ」と言いました。するとお菊がすぐに「父ちゃんと母ちゃんはお前を何とか一人前にしてやりたいのだよ。もしそれがいやなら家出してもいいよ」と言ったのです。しかし、甚五郎にはそんな根性はありませんでした。よく分からないまま甚五郎はしぶしぶ了解させられました。そしてこんなことになったのは聖心というどこの馬の骨か分からない乞食坊主のせいだと考えたのでした。そして心の中で「あのくそ坊主め、今に見ていろ。ただではおかないからな」と考えたのでした。すべて人のせいにしていた甚五郎ですから、そういう思いに至るのは当然でした。

遂に「聖心」と「甚五郎」の決戦の火ぶたが切られる

 そして夜があけ、すべてを任すことを聖心に告げた甚助とお菊は家を出て、宿から少し遠い借家を借りました。本当に出て行ったのでした。聖心と甚五郎の闘いがいよいよきって落とされたのです。甚五郎は聖心を恨んでいますので聖心を見るなり「このくそ坊主、よくもこんなことをしてくれたなぁ!! 俺は絶対にお前の言うことなどきかないからな!!」と言ったのです。その言葉を聞いた聖心はいきなり縄を持ってきました。そして甚五郎に何も言わずにあっという間に体に縄を巻きつけて縛り始めました。ふいをつかれた甚五郎は「な、な、な、なにをするのだ、このくそ坊主め!! このくそ坊主め!!・・・・」と何度も何度も言いましたが聖心は一言も口を利きませんでした。そしてそのうちに宿屋の裏手にあるイチョウの木の枝に縄を投げて甚五郎を上につってしまいました。これではさすがの甚五郎も手も足も出ませんでした。「ちくしょう、何をしやがる、今に見ていろ、このくそ坊主め!!・・・・」と叫ぶばかりです。それを聞いていた聖心は初めて口を開きました。「今までお前はうまくいかないと、すべて人のせいにして生きてきただろう!! そんなお前の腐った根性を叩きなおしてやる。いいか覚悟しろ。お前が死ぬか、わしが死ぬかの闘いだ!!」といきなり言ったのです。それを聞いた甚五郎はびっくりしてしまいました。そして怖くなりました。あんなに威勢のいいことを言っていたのがピタリと止まりました。聖心は「人間は自分の顔が見えないのと同じく、自分の心は見えない。見ようともしない。しかし、人のこととなるとよく見えるものだから、自分がうまくいかなくなるとすべて人のせいにしたくなるのだ。そのほうが楽だからな。お前は今まで自分を省みることをしてこなかっただろう。一晩頭を冷やして今までのことを振り返って自分を見つめ直せ!! 分かったか!!」と甚五郎に強く言ったのです。それを聞いた甚五郎は「くそー、くそー・・お前は何の権利があって俺をこんな目にあわせるんだ!! くそー、くそー・・・・」と言うばかりでした。今までそんなことを言う人と、ここまでやる人はいなかったのです。否(いや)が応でも甚五郎は今までのことを考えざるを得なくなったのです。その晩甚五郎は一晩中泣いていました。母ちゃんと父ちゃんはいるのにいっこうに助けてくれません。見てみぬふりです。甚五郎は涙も枯れてしまいました。そして相当の体力を消耗してしまいました。

翌朝になりすっかり気力がなくなっていました。それを見た聖心は「だいぶ参ったようだな。これではわしにかかってくる元気もなさそうだ」と言って、枝にぶら下っている甚五郎を降ろして縄をほどいてやりました。案の定、甚五郎は立てずに横に寝てしまいました。聖心は「体力があるのに毎日毎日家にいてはおかしくなるのも当然だ」と思ったのでした。甚五郎は、今度は腹が減ってきました。聖心に「腹が減ってきたのでなんか食べさせろ!!」というではありませんか。聖心はすかさず「今まで黙っていてもご飯が出てきただろう。自分で作って食べたことなどないだろう。お前が食べているものは全部お店から買ってこなければないのだぞ。買うにはお金がいる。お金を稼ぐには働かなければならない。それなのにお前は働いていない。親の金で買ってきた食料で親から料理してもらい、ただその料理を食うだけだ。そしてお前は親が建てた家で家賃も払わないで平気で暮らしている。自然界の動物を見てみろ。みんな食うために必死だ。自然界は食うか食われるかの世界だ。人間もきれいごとを言っているが似たようなものだ。しかし、自然界と違うところが一つある。それは仏性の魂であるダイヤモンド魂をもっているということだ。生存競争は厳しいが、この魂のおかげで本当の生きる本質を見失うということはない。しかし、この魂を見失ったとき戦(いくさ)がおきるのだぞ。お前も本来このダイヤモンド魂は心の奥底に持っている。しかし、いろんなことが原因でなかなか表にでてこないだけなのだ。お前は今この大事なダイヤモンド魂を完全に見失っている。この大事なダイヤモンド魂を心の中心にすえて生きていくことが大事なのに。人間も自然界の動物と同じく毎日が戦いなのだぞ。何と戦っているかというと、まずは自分との戦いだ。人間の最大の敵はまずは己なのだ。敵は他人ではないぞ。内なる心の敵がお前の心の中に住み着いているのだ。そいつをまず、ダイヤモンド魂で一掃しなければならない。先入観念や雑念、妄想も一緒に一掃される。その戦いにまず勝利することだ。次に競争という戦いだ。この戦いが原動力となって人間は進歩している。ここから逃げてしまうと心はどんどん言い訳という実に心地よい理屈を作り始めるのだ。お前はここが分かってない。この厳しさと心の原理が分かっていない。人間が生きていけるのは魚や動物たちを、知恵を使って捕まえてきて食べているからだ。人間が一枚も二枚も上ってことだ。食うか食われるかの食うほうが人間だ。そんな一枚も二枚も上の人間のお前が人生うまくいかないのは俺が悪いんじゃない、人が悪いんだ、親が悪いんだ、世の中が悪いんだ、と全部責任を他に押し付けている。これはお前の心が故障しているからだぞ。故障しているからうまくいかないのだ。いいか機械でもどこか故障していればうまくいかないものだ。もし機械が故障したらどうする? どこが故障しているのか機械の中を見てみるだろう。そして故障しているところを発見してそこを修理して動かすだろう。お前は心が故障しているにもかかわらず、その故障しているところを発見しようともしない。これではお前の人生がうまくいくはずがない。心というのはほとんど考え方ということだ。お前は考え方というところが故障しているのだ。考え方というのは人が直せるものではない。自分で苦労しながら直すしかないのだ。お前をだめにしているのはその故障しているところを発見しようともしないお前自身の心なのだ。それがお前をだめにしている犯人だ。そしてな、お前は食べ物のありがたみ、料理を作ってくれる親のありがたみ、食料を買うことができる金のありがたみが心からまったく分かっていない。ダイヤモンド魂はわしがおいおいと教えてやる。まぁ、しばらく何も食べずにここにいろ。今逃げられないようにこの木に縛るぞ」と言って今度は甚五郎をしゃがんだままその木に縛り付けました。これではいくら腹が減っても何も食べられません。聖心はそのまま甚五郎を木に縛り付けたまま行ってしまいました。

「甚五郎」は生まれて初めて「ありがたみ」というのが解る

甚五郎は木に縛り付けられた状態で三日間外に放置されました。そんな甚五郎は腹が減って腹が減ってどうにもなりません。今までこんな経験をしたことがありませんでした。とうとう泣いてしまいました。しかし、どんなに泣いてもわめいても食べ物は出てきませんでした。そしてしばらくすると聖心がやってきました。そして甚五郎に「どうだ、食べ物のありがたみを感じるか? 親のありがたみを感じるか? 金のありがたみを感じるか? お前は今まで食べ物に感謝したことはいっぺんもないだろう。親をあごで使ってきただろう。金は天から降ってくるものと思っていただろう。親もお前を王様にしたのが間違いだったのだ」と言ったのでした。そういって聖心は水を少し甚五郎にやりました。甚五郎はこんなにも水がおいしいとは思いませんでした。思わず「うめー、うめー・・・・」と叫んでいました。それを見た聖心は「水がどんなに大事なものか分かっただろう。あまりにも水が普通にあるものだから水のありがたさも分からなくなっていたのだぞ」と甚五郎に言いました。甚五郎は「うん、うん・・・」と何度も首を縦にふり、聖心の言うことに相づちを打っていました。そんな甚五郎を見た聖心は「この人間は助かるかもしれないな」と思ったのでした。そしてその場を離れました。しばらくして今度はおかゆを少し持ってきてやりました。聖心は甚五郎の口におかゆを食べさせました。甚五郎はあまりのうまさに涙を流しました。聖心は心の中で「効いたようだなぁ」と思いました。そして甚五郎に向かって「この米はなぁ、お百姓さんがなぁ、広い田んぼを鍬(くわ)で自分の力で耕して作った米なんだぞ。一日中鍬で田んぼを耕してみろ。くたくたになるのだぞ。それだけでは米はできない。まだまだ重労働しなければならないのだ。そんなお百姓さんのことを考えてこのおかゆをすするのだぞ。そうすればもっとこのおかゆのありがたみが分かるぞ」と言いました。それを聞いていた甚五郎は「うん、うん・・・・」と首を縦にまた振りました。聖心は心の中で「この人間は意外と素直なところがあるぞ」と思いました。そしてイチョウの木から開放してもいいような気持ちになっていきました。しかし、そのことが後でとんでもないことになろうとは聖心は夢にも思っていませんでした。

 おかゆを食べさせてしばらくして聖心は甚五郎に「どうだ、おかゆのありがたみが分かったか?」と質問したのです。すると甚五郎は小さい声で「はい、分かりました」と言ったのです。それを聞いた聖心は「今お前をその木から解放してやるぞ」と言ったのです。そして木に縛られている甚五郎の縄をほどいてやったのでした。すると甚五郎はすかさず走って逃げました。驚いた聖心は「こらー待て!!」と言って追いかけていきました。甚五郎は台所にあった刺身包丁を取りに行ったのでした。そしてその包丁を持ってくるなり聖心に「この野郎!! よくもこんな痛い目にあわせてくれたな!!」と言って聖心めがけて突進してきたのです。聖心は剣術の心得が少しあったので間一髪でその包丁から身を守ることができました。そして甚五郎に向かって「殺せるなら殺してみろ!! お前にそんな度胸があるのか。さあ、やってみろ!!」と言って甚五郎にせまりました。聖心は本当に闘うべきときが来たな、と感じていました。これは避けて通れないな、とも考えていました。お互いの自我と自我の闘いが始まったのです。甚五郎は聖心の迫力に圧倒されていました。いざ、包丁を持って相手を殺そうと思っても手が震えてしまってどうしても次の行動が取れませんでした。聖心はそんな甚五郎のすきを見て、包丁を持っている手を押さえて包丁を取り返すことに成功したのです。甚五郎は腰砕けになりよろよろと崩れてしまいました。そしてがっくりと肩を落としたのでした。まさに生きるか死ぬかの闘いの瞬間でした。聖心は甚五郎との闘いに勝利しました。甚五郎は今まで自分がすべて支配していたと思っていたものが聖心によって崩壊させられたのです。

遂に「甚五郎」、開眼する!!

 それからというもの甚五郎は人が変わったように聖心の言うことを素直に聞くようになりました。力関係が親のときと違い逆転したのでした。聖心は甚五郎に厳しく接しました。金のありがたみ、空気のありがたみ、お客様のありがたみ、食べ物のありがたみ等など、この世の中のすべてのもののありがたみを、身をもって分からせようとしていたのです。しかし、聖心は「心から分かる」ということがいかに難しいかということも分かっていました。そのため妥協は許しませんでした。そんな厳しい生活が半年経過しました。甚五郎はこの半年間の聖心の指導により自分の考え方が間違っていたことが分かったのです。心の故障箇所を発見することができたのです。自分が間違った考え方をしていることに気付いたのでした。すべてうまくいかなかった原因が自分にあるということを悟ったのでした。聖心はそのことに気付いた甚五郎を見て、この生活の終わりが近いと感じていました。そして甚助とお菊にこう告げました「これでわしはここから去ります。甚五郎さんもよくがんばりました。やっと分かったみたいです。分かるということは大変なことなのですが克服したようです。しかし、人間は慢心というのもありますから日々自分を律しなければなりません。そこをよく見てやってください。そして大事なことは決して子供を王様にしてはなりません。親の威厳が大切なのです。力関係の主導権は親が握らなければなりません。わしは主導権を握る闘いで最初は殺されるかと思いました。しかし、何とか勝利することができました。そのために甚五郎は立ち直ることができたのです。本人も那須温泉でもう一度板前の修業を一からやり直したいと言っています。ぜひ実現させてください」と。そのことを聞いた2人は聖心の言ったとおりにしました。そして聖心はお礼に甚助から路銀をいただき次の上州の沼田へと旅だって行ったとさ。 おしまい

 注意・・・人を縛って木にぶら下げたり、木に縛ったりしないで下さい。この物語に出てくるこれら行為はあくまでも「物語」のなかのお話です。真似はしないで下さい。引きこもりは、はっきりとした理由や原因がよく分からないものが多くあります。引きこもりは百人百様の理由があります。それにともなって百人百様の対応があります。

引きこもりに関する一つの見解

◎ この物語の作者が考える「引きこもりとは?」・・・結論日本国民の各々が抱えている不平不満、悩み等のストレスの爆発が、立場の弱い方(特に心根の優しい方)へ向けられて、その方が居場所を失って家へと追いやられること。

経済的な豊かさ追及と競争激化等(ただし経済発展、競争激化は悪ではない。世界との闘いの渦中に日本は今ある)や格差社会の拡大等で国民の不平不満、悩み等が増大 心が満たされないで抑圧された国民のストレスが爆発(ノルマ必達の重圧、仕事への締め付け等や国民の各々が抱える不平不満、悩み等による)。その爆発はパワハラ、いじめ、恫喝、叱責、誹謗中傷、嫌がらせ、暴言、暴力等となって現れる その爆発の矛先(ほこさき)は立場の弱い方(特に心根の優しい方)へ。その結果、心はズタズタになる 引きこもりへ(もしかしたら精神疾患を発症している場合もあります。又発達障害が露呈する場合もあります。)

※ 例えば、運輸業界が厳しくなれば、そのしわ寄せは中間管理職と末端の「運転手さん」にかかってきます。このようなことはすべての業界の労働者にいえることなのです。又、経済的に豊かになっているのに漠然とした不安をいだいて、心が満たされない状態の日本人は増え続けています。その結果、ストレスの爆発が起きるのです。

※何一つ良いこと、楽しいことがない。自分が思っていた世の中ではなかった。

こんな状態になると安心出来なくなり、世の中が嫌になる。

心は傷だらけでズタズタ!!(心が悲鳴をあげている)

家へ避難(引きこもる)

それでは引きこもりを解決するにはどうしたらいいのか?

自分を強く真に優しい人間に変えるしかない。世の中や他人を責めても解決しない。
※ 強く真に優しい人間とは何か? 人のストレスの爆発を笑い飛ばし、周りに安心感を醸成出来る人間になること。

すべての日本国民が「心豊かで強く優しく思いやりのある人間になれば問題は解決しますが、それは至難の業です。まず「己」を変えることです。

働いているすべての国民の財布の中に常時50万円が入っていて、心は全てに感謝し、毎日明るく楽しく生きて、すべての人への思いやりのある状態を心に実現させれば引きこもりは起きないと考えます。しかし、それは不可能に近いのです。しかし、それが仮に実現できたとしても人間は50万円を100万円にしようとします。そうすると永遠に人間は満たされることはないということも言えるのです。

(注)※至難の業・・・世の中や他人を責めても決して問題は解決しません。どんな時代でも不平不満や抑圧されたストレスは存在していたのです。それが人間社会というものではないでしょうか。しかし、そうだからといって野放しにしておくわけにはいきません。困難な道ではありますが、弊社はメルシーちゃんの普及を通じて「心豊かで強く優しく思いやりのある人間」を増やしていく活動をしております。

◎ なぜ人間は強くなければならないのか? 人間はやられっぱなしになると負け癖がつきます。そして最後に「心に傷を負います」。負け癖は主体的な人生を切り拓けません。

◎ なぜ人間は真に優しくなければならないのか? 優しくないと人間にとって一番大切な安心を周りに醸成出来なくなるからです。いつも不安な人生は心の不安定を招き、平安を得ることが出来ません。

※ 真の優しさは「人間の生活」にとって「心の安定」という一番の土台を造ります。人間の生活の根本土台は「目には見えないモノ」なのです。

※「人間の生活」の土台は「目には見えない安心」が支えているのです。安心は人間の優しさから生まれます。「優しさ」は「目には見えないモノ」から醸成されます。ですから「目には見えないモノ」が書いてある宗教書、哲学書等は重要なのです。ここに「精神の価値」の重要性をご理解していただけたのではないかと思います。「精神」を食べても(=勉強しても)腹いっぱいにならない(=お金にならない)、とお考えの方も少しは分かっていただけたのではないかと思います。

強さと優しさを得る具体的な考え方

No1.人間の生き方 No2.人間は人間を攻撃する生き物です。だから避難場所等が必要であり、「心の傷のかさぶたが取れる」のを待ちましょう。「心の傷のかさぶたが取れる」とはどういうことか?  No3. 人間は「考え方の種」を創造することによって生きる方向が決まる。 No4.引きこもりの方へ@この世の中は人間と人間の闘いだ A 人生は一生闘いだ、だから精神の免疫力の「闘魂」を呼び覚ましましょう B人間を否定するのではなく、肯定しよう C苦しさの頂点に達したら、「そこが人生の最大の踏ん張りどころだ」と思ってとにかく踏ん張って耐えろ。苦しさの頂点は、成長の分岐点でもある D人生最大の強敵は己だ E最初から面(つら)の皮が厚い人間はいない Fあなたはあなたの考えでいい Gいくら立場が弱くても闘わなければならないときは闘え!! Hどうせ人間は死ぬ、ならば・・・・ Iなぜ生きるのか?  J具体的な簡単な自己改善法  K「どんな仕事でもいいからやってみよう!!」という前向きな気概があなたの「殻」を破り、新しい発見をもたらし、人生に窮しない
L 挫折や失敗はお宝だ!! これを経験しなければ成長はない

No1. 人間の生き方

「生き方」それは、はっきり言って「自由」です。「こんな生き方をしなければならない」「人間は働かなければならない」「学校へ行かなければならない」等々と「何々しなければならない」という呪縛に支配されているのが現代です。しかし、真実は「自由」です。日本国憲法第27条第一項においては勤労の義務を負うとなっていますが、これは一つの方針にすぎず、強制ではありません。無理やり働かなくてもいいのです。すべての日本国民はどんな生き方をしようとそれは個人の選択で決まります。選択肢の中には「働かない」というのも当然あります。日本国憲法では個人の考えが尊重されているわけですから当然「働かない」を選択することが出来ます。無理に働いてもいいことはありません。ですから「引きこもり」で働かなくなったといっても驚くことではありません。その人が何らかの理由でそれを選択しただけなのです。まずはそこを押さえておかなければなりません。

周りが「引きこもり」で騒ぎすぎると引きこもった本人はそれだけで罪悪感というプレッシャーがかかります。世の中も「引きこもり」が何か悪いことのように思わせている風潮にも問題があります。ただ引きこもった本人が選択肢の中の一つを選択しただけなのです。選択したというより、そこへ追い詰められたということです。社会全体の総ストレスの犠牲者なのです。もし、あなたが重労働して疲れればどうしますか。きっと多くの選択肢の中から「休む」を選択する可能性は大きいと思います。引きこもりも人生の中で「何らかのこと」があり「疲れた」のです。「引きこもる」とはすなわち社会活動を「休む」ということです。もしかしたら「何らかのこと」で心の病(何らかの精神疾患)を発症したかもしれません。又発達障害が露呈したかもしれません。そうなった場合、家族はまずは評判の良い「メンタルクリニック」なり「精神科」のドクターと相談しなければならないのです。確認しておきたいことは「引きこもりは悪いことではない」ということです。疲れたので「休む」という選択をしたということです。ここを分かってあげる必要があります。人によって疲れる度合いはみんな違います。例えば陸上競技で1,500mを全力疾走して「へとへと」に疲れる人もいれば、余裕のある人もいるのです。ちょっとした言葉一つで人によっては深く傷つく人もいれば、平気な人もいるのと同じなのです。人間はみんな違うということです。

No2. 人間は人間を攻撃する生き物です。だから避難場所等が必要であり、「心の傷のかさぶたが取れる」のを待ちましょう。「心の傷のかさぶたが取れる」とはどういうことか?

[現代は良いことより、嫌なことの方が多い世の中→超ストレス社会]
この世の人間界は実に様々な人間が必死になって生きています。そのため人間界は良い感情ばかりが支配する世界ではありません。何も悪いことをしていないのに急に怒鳴られたりします。また、簡単に傷つくような言葉をあびせられたりします。コンビニでアルバイトしていたらいきなりお客様に怒鳴られることもあります。複雑な人間関係に嫌気を起こすこともあります。人間関係が面倒くさくなったりします。客商売をしていてクレーマーにつかまり、徹底的に糾弾されたりします。自分は何の責任もないのに叱責されたりします。いじめにあう場合もあります。その他理不尽なことに遭遇して八つ当たり等される場合もあります。まだまだ、数え上げればきりがありません。実に嫌な世の中なのです。そのためこの世の中はしんどくなります。このようなしんどい世の中の何もかもが嫌になって「この世の中と関わらないようにしよう」と心に決意して家に入り、社会と関わりを絶つのを「引きこもり」と言います。ちょうど母親の子宮から世の中に出てきたけれども、あまりにも世の中がしんどいのでまた安心、安楽な母親の子宮に帰るようなものです。いったん切ったへその緒は、再度接続して生きる栄養素(食事等)を供給してもらいます。このようにまだ帰れるところがあり、面倒を見てもらえる人は幸せなのです。「引きこもった人」はまずはこの気持ちを持って親に感謝しましょう。引きこもりの原因は一つでありません。いろいろなストレスの多種多様な爆発によって引き起こされます。「引きこもり」は日本だけの問題ではありません。

[人間は人間を攻撃する]
昔、太平洋戦争中にアメリカのB29爆撃機で日本中のほとんどの都市が空襲攻撃を受けました。攻撃を受けたとき、人々はどこへ逃げたのでしょうか。それは「防空壕(ごう)」です。そういう避難場所があったのです。また、戦争で地上戦の場合、相手の攻撃から身を守るために「壕」を掘ります。ここも一つの避難場所です。人間は戦いの時、その攻撃から身を守るために「避難場所」をあらかじめ造っておくのです。それは負傷しないためであり、最終的に「命」を守るためです。

目を私たちの日常の生活の中に向けてみましょう。人間界では人間は人間を攻撃します。「いじめ」「パワハラ」「恫喝」「虐待」「誹謗中傷」「嫌がらせ」「怒り」「叱責」「暴力」「暴言」等々の爆発はすべて攻撃です。この世の中には攻撃的な人間は多いのです。特にその攻撃は立場の弱い方(特に心根の優しい方)に向けられます。攻撃型の人は決して強い人間を攻撃することはありません。立場の弱い方はたまったものではありません。普通はこのような攻撃を受けた場合、「憂(う)さ晴らし」として「酒を飲みに行く」「パチンコやその他の遊興」「趣味等」で嫌なことを忘れて心をリセットします。中には違法な薬物に逃避する人もいます。このような避難場所を確保してそこへ避難すればなんとか大きく傷つくことはそんなにありません。しかし、中にはその攻撃をまとめに受けてリセットできない場合があります。そうすると私たちの心は繊細でガラス細工のようにもろいために、少しのショックでもヒビが入るのです。要するに傷ついてしまうということです。人間は精神的に傷つきやすい生き物なのです。すべての人間がそのことを理解して人を思いやる優しい人ばかりで、この世の中が楽しいことばかりのパラダイスであれば傷つくことはありません。しかし、人間界はそうなっていません。人間は人間を攻撃してその人間を傷つけます。傷だけでなく最悪自殺に追い込む場合もあます。又、殺人に発展する場合もあるのです。中には傷を負わせていることに気が付かない人間もいます。なぜ人間は攻撃するのか。それはストレスの爆発によってもたらされます。そしてそのことによって少しでも自分が優位に立ちたいからです。より優位に立って支配したいからです。そして人間関係も複雑でなかなか良い関係を簡単には構築出来ません。まずはそのことを知っておく必要があります。人間界は複雑怪奇といっても過言ではありません。だまし合いあり。駆け引き有り。ポーカーフェイス有り。脅しや、ハッタリ等々何でも有りです。一筋縄ではいかないのが人間界です。そんな人間界の中であなたの職場に人間を攻撃する攻撃型の人間はいませんか。「攻撃」を受けたとき「何だ、この野郎!!」と言って、受けて立って反論等や、喧嘩したりして反撃すれば人間は傷つきません。要するに攻撃されたとき、我慢するのではなく、自分を出し切って自分の考えを最後まできっちり主張すれば傷つかないということです。我慢すると人間は傷つく可能性があります。しかし、なかなか立場の弱い方は自分を出し切る行動はとれません。そのために攻撃を受けたストレスをまともに抱え込むことになります。これで心は「ズタズタ」になります。

【経済の成長等によって生まれた抑圧されたストレスや各々が抱えている不平不満や悩み等の抑圧されたストレスの社会全体の総ストレスの爆発からどうやって身を守るか】

[引きこもりは一つの避難であり、自己防衛だ]
攻撃されたとき反撃できなかった場合、人によっては「引きこもり」が起きる可能性は大きいのです。社会と関わりを絶ちたいという気持ちになるのです。「引きこもり」は一つの心の避難です。そうすると戦争の時に避難した「防空壕」へ避難するようなものなのです。人間の何らかの攻撃によって傷ついた場合、心を癒す場所が必要なのです。要するに「避難場所」が必要ということです。引きこもりは「もうこれ以上傷つきたくない」という心の悲鳴であり、それは自己防衛本能が働いた結果です。

[親や家族が攻撃型になってはいけない。逆に親や家族はこの世で一番の理解者にならなければならない]
どうしても親はいつまでも引きこもっていると「早く働きなさい!!」「こんな怠け者に育てたのではない!!」「いい年をして何をやっているんだ!!」「甘ったれるな!!」等々のことを言います。しかし、傷ついているのは引きこもっている本人です。一番苦しいのは引きこもっている本人なのです。単なる精神論では解決しないのです。引きこもっている本人の内面の分析が必要です。場合によっては精神科等のドクターと親は相談する必要があります。親は引きこもっている本人の苦しい心をこの世で一番に理解してやる必要があります。どうしても人間は自分の「物差し(価値観)」で相手を測ろうとします。しかし、人間の心は繊細で傷つきやすいガラス細工みたいなものだ、という思いに至らなければなりません。少しの乱暴な言葉等で傷ついてしまうのです。その思いを胸に秘めて対応する必要があります。親や家族でいろいろと愚痴等を引きこもりの方に言うということは引きこもりの方を攻撃していることにほかなりません。家族からそんな攻撃をされたのでは益々心の傷は深くなります。世の中の他人に攻撃され、家族にも攻撃されたのでは自分の居場所がなくなります。居場所がなくなるということは追い詰められるということです。

[心の傷は目には見えないために偏見や誤解を生む。心の傷のかさぶたが自然と取れるのを待たなければならない。焦ると摩擦や衝突が起きる]
人間の外的な傷は「かさぶた」が自然とはがれてその傷は治ります。内的な心の傷も何かの言葉や物語等を読んだり、修行場で「我に返ったり」「新境地に到達」したりして、自然と何が大切かに気付くときが来るのです。その時が「心の傷のかさぶた」が取れる時なのです。心の傷のかさぶたが取れる時とは、一つの悟り、すなわち「気付き」を得た時に取れます。

引きこもり息子の甚五郎」の物語は何が大切なのかを要約した物語です。少し乱暴な筋書きにはなっていますが、一人一人の会話に注目していただきたいのです。もし引きこもっている方のご家庭があれば本人にぜひ一読させていただけないでしょうか。決して「こうしなさい」とか「あーしなさい」と命令してはいけません。あくまでも本人の気付きなのです。本人の「心の傷のかさぶた」が取れるのを待たなければなりません。人間の心の傷は目には見えません。骨折や何らかの大きなケガは痛々しさが一目瞭然で分かります。しかし、心の傷はまったく痛々しさを外部にアピールすることが出来ないのです。そのために周りの人々は「普通」に見えてしまうのです。そのため偏見や誤解が生じます。そして最悪不幸な事件も起きているのです。

このホームページの中に「心の傷のかさぶた」が取れる言葉や物語も多く掲載してあります。ぜひ参考にしていただければ幸いです。引きこもっているお子さんを信じてあげてください。その信じてあげるという気持ちは必ず通じるときが来ます。人間は「不信感」は「不信感」を生み、「信頼」は「信頼」を生むのです。

※ 親御さんのご心配は分かります。しかし、物事は「なるようにしかならない」という開き直りも大切です。そう思うことによって一つの救いがあります。そして「かわいそうだ」「かわいそうだ」という情は本人のためになりません。親の本当の愛情は少し距離を置いた客観的な考え方です。その代表は「本人が真に自立すること」を考えてあげることと「子供を信頼すること」です。そして親がその引きこもりの問題に振り回されるのではなく、しっかりとした生き方をすることです。子は親を観ているのです。又、各自治体には相談窓口があります。問題を親御さんだけで抱え込むのではなく、同じ問題を抱えている方々との連携も大切です。問題を共有していくことは力になります。「引きこもり」を恥ずかしい問題として位置付けないで、世の中にオープンにして対応することは、ストレスの蓄積を防止し衝突をも防ぎます。要は精神衛生上良いことなのです。この世の中、どんなご家庭でも一つや二つは何らかの問題があるものです。

[引きこもりの方は優れた人間性を持っている]
引きこもりの方はどちらかというと繊細でナイーブで感受性が特に強い傾向があります。この性格は人間的に非常に優れたものに入ります。どちらかというと芸術家タイプに多いのです。非常に優れた人間性を潜在的に持っているということです。これを生かさない手はありません。「引きこもりの方」はその能力を生かせばすばらしい人間になる可能性は大きいのです。本人はそのことに気付いていないかもしれませんが、筆者はそのように考えます。潜在能力を生かすも殺すも周りの人々のかかわり方一つなのです。

【引きこもりの方が本来持っている、蓮(はす)の花のようなきれいで美しい心の花は単独では咲かすことが出来ない。泥の中という世の中に根を下ろしてしっかりとはってこそ、その美しい心の花は咲いて光り輝く】
清流に住む魚ほど(鮎等)少しでも汚れた水の中では強く生きられません。しかし、魚の中には汚い泥の中でも力強く生きられる魚もいます。淡水魚の「フナ」「ナマズ」「雷魚」「ドジョウ」等は泥があって、濁っている水の中でも力強く生きられるのです。「引きこもりの方」は心が清くきれいで美しい心の持主と筆者は思っています。魚で言うと清流に生きる鮎ではないかと思うのです。心は純粋できれいなのです。この世の中は、はっきり言って清流ではありません。お釈迦様は「この世の中は多くのドロドロとした欲望の渦が巻いている汚くて恐ろしいところだ。まるでそれは泥の中のようだ」と言っています。そのために純粋で心がきれいな方がこの泥の中のような汚くて恐ろしい世の中で何らかの障害に遭って、何もかもが分からなくなり、すべてが混乱して思考がこんがらがってしまい人間不信に陥ってしまったと筆者は推測します。これはちょうど魚釣りの糸がからまってしまったという状態と似ていると思うのです。魚釣りをした人はお分かりかと思いますが、糸がからまるとそれを直すには時間がかかります。焦ると益々複雑にからまっていくのです。からまった糸を直すには時間と冷静さと根気が必要になります。ですから今「引きこもっている方」は魚釣りのからまった糸を直すような気持ちで対応しませんか。そしていろいろと現実の世の中のことも考えながら、冷静さと根気を失うことなくじっくりと自分と向き合いませんか。そして「清濁併せ呑(の)むことの出来る懐(ふところ)が深い強い人間になる」と最終的に決意しませんか。この決意があってこそ泥の中でも生きられるようになります。要は鮎から泥の中でも生きられる雷魚に生まれ変わってもらいたいのです。生まれ変わればきっと一つの悟り(気づき)を得ると確信しております。そうすればこんがらがった糸は必ずまっすぐになります。

お釈迦様は心のありようを「泥の中に咲く蓮(はす)の花のように美しく」と説いています。蓮の花は泥と密接につながってこそ咲くのです。単独では咲くことが出来ません。「泥の中」すなわちこの世の中と密接につながってこそ蓮の花のような美しい心の花は光り輝くのです。引きこもりの方の美しい心を生かすには泥の中のような世の中にしっかりと根をはってこそ、その美しい心は生かされて光り輝くものとなるのです。ここにこの世の中と深く関わってこそ引きこもりの方のストロングポイント(長所)」が生かされるのです。泥の中に生きて多くの方々と関わってこそ美しい心の花は真に光り輝くのです。

(きれいな心、美しい心)


No3. 人間は「考え方の種」を創造することによって生きる方向が決まる。

何らかの病気以外で引きこもった場合は本人の意志に逆らって慌てて第三者が運営する支援施設等に入所させてはいけません。本人の意志が最重要です。本人が第三者の力を借りて「更生したい」という意志があれば何の問題もありません。要は本人が納得して「更生したい」という意志を持ったのかどうかが大切になります。ただし、その場合は信用ある支援施設等に限ります。事前に良く調査する必要があります。

人間にとって、最も大切なのは「考え方の種」です。「考え方の種」が人生の方向を決めます。このホームページでは「人間はどんな人も必ず死ぬ。それならばポジティブに生きたほうが充実した人生を送れる」という考え方の種に立脚して制作されています。この考え方の種がなければこのホームページは存在していません。しかし、こんな「ポジティブな考え方で生きろ」と主張したところで、ある人は「私は毎日パチンコしていた方が充実して楽しい」となればその人はそれでいいのです。中には「私は毎日酒を飲んでいた方が幸せだ」となればそれはそれでいいのです。みんな人間は「考え方の種」が違うのです。極端な話「私は引きこもっていた方が幸せだ」となればそれはそれでいいということです。何人(なんびと)もそれを否定できませんし、非難することはできません。こんなうまいステーキを何で食べないのだ、とステーキの嫌いな人に言ったところでどうにもなりません。しかし、引きこもりは「あなたはそれで本当にいいのですか?」という問いを突き付けることは出来ます。

人間は「心」という大地の土の中に「考え方の種」をまいてそれを芽生えさせて成長させなければちゃんとしたものになりません。ちょうど野菜を作るのと同じです。どんな種類の野菜を作るかによって種は違います。ナス、キュウリ、トマト、カボチャ等々と野菜の種類は多くあります。人間も「考え方の種」によってどんな人間になるか(どんな野菜になるか)の結果が違ってくるのです。どの種(考え方の種)を創造するかによってどんな人間になるかという方向が決まるということです。何の考え方の種もない状態では何をしても無駄です。心という大地に種をまけないのです。すなわち方向が決まらないということです。飛行機でもエンジン、胴体、主翼、操縦設備等々がそろっていてもたった一つの垂直尾翼の方向蛇がなければ飛ばせない(人間で言えば活動できない)のと同じなのです。ですから本人がいろいろなもの(本、このHP等)を参考にしてどんな考え方の種が心の中に誕生するのか待たなければなりません。No4以下は「考え方の種」を創造するのに参考にしてください。

No4. 引きこもりの方へ

@ この世の中は人間と人間の闘いだ

この世の中は人間と人間の闘いなのです。武器は使用しませんが、この世の中は「人間の精神対精神、魂対魂の戦場」と言っても過言ではありません。あなたの周りを見てください。きっといろいろな個性豊かな人間が大勢いると思います。一般的にあなたにとって「苦手(にがて)な人」があなたの天敵になる可能性があります。この世の中には短気な人、すぐに怒る人、おっかない人、優しい人、すぐに頭にくる人、すぐに大きな声を出す人、喧嘩早(ぱや)い人、おっちょこちょいの人、冷静な人、欠点ばかり指摘する人、あなたを否定する人等々、切りがないくらい多種多様です。人間は個性対個性で闘っているのです。ある人が放つ個性がともするとあなたを傷つけているかもしれません。人間は意図しないのに第三者の心を傷つけている場合もあるのです。

A 人生は一生闘いだ、だから精神の免疫力の「闘魂」を呼び覚ましましょう

この世の中はいろいろな人がいます。それがこの世の中では当たり前なのです。映画でもテレビでも「正義の味方」だらけでは何も面白くありません。悪役あり。善人面(ぜんにんづら)して陰にまわれば極悪人等々いろいろな役者がいて面白いのです。この世の中はいろいろな役者がそろっているのです。人生もこのように考えると生きることが楽になります。人生が面白くなります。

この世の中は思いやりがあり心温かく、優しい人ばかりではないのです。人間が生きて行くためにはそんないろいろな人に耐えられる免疫力を付ける必要があります。人間の体と同じなのです。人間の体の中も免疫力という防衛軍がいて、体の中に入った悪玉菌をやっつけてくれます。人間も悪玉人間と善玉人間に分かれます。人の心をズタズタにするのは「悪玉人間」です。この悪玉人間と闘っていくには何が必要か、ということです。それは精神の免疫力の一つである「闘魂」という根性です。人をいじめる人間は悪玉人間です。

人間が闘うためには「闘魂」が必要です。そんな「闘魂」を呼び覚まして生きて行きましょう。「闘魂」はあなたの防衛軍です。すなわち「闘魂」はあなたの精神の免疫力です。「闘魂」がないとやられっぱなしになります。体の中の免疫力がないと悪玉菌にやられっぱなしになって病気になると同じということです。「精神対精神、魂対魂の戦場」において「闘魂」を呼び覚ますには己の内面を磨いて鍛えなければなりません。己の内面を磨いて鍛えれば自信もついてきます。

人生はいろんな人と闘っていかなければなりません。「この人は、私は嫌いだからこの人から逃げたい」ということは通用しません。そんな人間に対処する方法を自分なりに取得しなければなりません。あなたにきつく当たる人は、実は大きなストレスを抱えていて、そのストレス発散のためにあなたにきつく当たっているかもしれないのです。そんな風に考えると逆にその人がかわいそうになってくる場合もあるのです。人生とはいろいろな人が闘って織りなす一つの物語です。こんな風に考えてみませんか。そうすると少し楽に生きられます。

※ 内面を磨いて鍛える一つの方法は武道(剣道、柔道等)教室への入門をお勧めします。武道は「自分と徹底的に向き合い、闘魂を呼び覚ましてくれるすばらしいスポーツです。(筆者経験あり。筆者は剣道三段です)。小さいお子様を礼儀等が身に着く人間教育が出来る剣道教室に入門することをお勧めします。そうすれば大人になってやられっぱなしになることはありません。

B 人間を否定するのではなく、肯定しよう

「この世の中にはいろいろな人がいる」という考えは人間を肯定する考え方です。この考え方は多種多様な個性を肯定することにほかなりません。すなわち多様性を尊重することにつながります。そしてそのことはあなたの心を寛容へと導いてくれます。あなたにきつく等当たる人間を否定してしまうと人間関係を構築出来ません。人間関係を構築出来ないということは世の中との関わりを拒否することにつながります。そうすると多くの恵みを受け取ることが出来なくなり、孤立してしまうのです。きっとそんな寂しい人生を送りたくはないと思います。人生の出発点は、まずはどんな嫌な性格の人間でも「その人を肯定する」ことから始めましょう。そうするとそのきつく当たる人等の嫌な性格の人間の「ストロングポイント(長所)」を発見出来ます。

人間の善性を肯定し心豊かで明るく強く優しい人間になる方法(心の太陽を獲得する一つの方法)

C 苦しさの頂点に達したら、「そこが人生の最大の踏ん張りどころだ」と思ってとにかく踏ん張って耐えろ。苦しさの頂点は、成長の分岐点でもある

人生には乗り越えなければならない(又は突き破らなければならない)苦しい局面が必ずあります。「引きこもり」に遭遇してしまった方は今がその時です。そんな苦しい人生から逃げる、すなわち自殺は絶対にしないでください。人間は苦しさがあるから成長する生き物なのです。逃げたら成長する恩恵を受けることが出来ません。苦しさの中でも必ずその頂点というものがあります。「もう私はダメだ」というところがその頂点です。もし、その頂点に達したら「ここが人生最大の踏ん張りどころだ」と考えて踏ん張って耐え忍び、どんな方法でもいいから命をつなぐのです。例えばあなたが何らかの精神疾患を患っていたらドクターに相談して処方薬をもらってでも命をつなぎ留めましょう。考え方の限界に来て絶望に直面していたら信仰の門を叩いてでも命をつなぎ留めましょう。苦しさの頂点は、実はあなたが大きく成長出来る分岐点でもあるのです。だからその分岐点から逃避してはいけません。「苦しさの頂点は人生最大の踏ん張りどころであり、あなたの新世界を切り拓く分岐点だ」ということを頭に叩き込んでおきましょう。

※ 人間誰しも「弱い自分」と「強い自分」の両方を持っています。精根尽き果ててしまった場合、「弱い自分」が主役となります。その時にもう一方の「強い自分」を呼び覚ます方法は「なにくそ、こんなことに負けてたまるか」と自分に何回も声を出して言い聞かせることです。この声出し方法は効果があります。自殺してからでは間に合いません。自殺する前に「なにくそ、負けてたまるか」と最後に踏ん張って声を出しましょう。自分に勝つか負けるかは人生を決定します。以外と「弱い自分」の正体は「己の甘えの体質」からきている場合もあるのです。その甘えから脱出できるかは自分に勝つことによって克服出来ます。

D 人生最大の強敵は己だ

あなたの敵はいったい誰ですか。同僚ですか。友達ですか。それともライバルですか。商売敵(しょうばいがたき)ですか。実は最大の強敵は己、すなわち自分です。この者は実に利口です。都合のいい「言い訳」をすぐに思いつく優れものです。また、実に嘘をつくことに巧妙です。楽な方向へと導くのに優れています。こんな優れ者があなたの強敵なのです。そんな己に勝つか負けるかは人生を決定します。自殺をほのめかすのも強敵の己です。人生はそんな者に勝利しなければなりません。「どうせこんな勉強したって最後は死ぬのだから何の意味もない。パチンコや競馬等のギャンブルをしたほうが楽しい」等とあなたにささやいて楽な道へと誘惑するかもしれません。そんな最大の誘惑者に勝利しなければならないのです。ですから「人生最大の強敵は己だ。この者に勝利しなければ人生を切り拓くことは出来ない」ということを頭に叩き込んでおきましょう。

E 最初から面(つら)の皮が厚い人間はいない

人間は最初から強い人間はいません。最初はみんな弱いのです。しかし、生活していく中でいろいろな人間に攻撃されて傷つきながら強い人間に徐々になっていくのです。強い人間になっていく過程では様々な葛藤を繰り返して弱い己に勝利していくのです。それを繰り返していく中で面の皮が厚くなり強い人間に成長していきます。最初から強い人間はいません。例えば剣道でも最初から強い人間はいません。最初は足の運び、竹刀の持ち方等から入ります。最初はみんな初心者です。人生も最初は初心者なのです。そんな中で挫折、失敗、苦悩等々様々なマイナスの経験を乗り越えて強くなっていくのです。ですから「引きこもり」はその過程の途中です。そのことに気付いてください。世の中道場の修行中の一つの壁が「引きこもり」だと考えてください。あなたは人生の修行者なのです。ですからその壁を乗り越える又は破ることに挑戦しなければなりません。その壁を乗り越えればあなたは面の皮も厚くなり強くなれます。その壁を乗り越えるためのあなたの「考え方の種」を発見してください。発見したらその種を心にまいて芽を出しましょう。人生はあなたの考え方次第ということなのです。あなたがすべてを握っているのです。人生丸のキャプテンはあなたです。

F あなたはあなたの考えでいい

「こんな考え方をしたのでは人に笑われるかも」等と考えたことは過去にありませんか。きっと一つや二つくらいはあるのではないでしょうか。しかし、そんなことを心配する必要はありません。あなたはあなたの考えでいいのです。こんな考えでは人にバカにされるのではないか、とか思わないでください。自分の信念に従った考え方は貴重です。それがあなたなのです。人間は「自分の考え」でしか生きていけません。「考え方」があなたの支配者です。いろいろな本等は参考になるのであって、その参考にしたものの中から、あなたの中であなたの考え方に生まれ変わる、すなわち血や肉に変えたものだけがあなたの考え方になって真に身に着きます。そうした身に着いたあなたの考え方でいいのです。筆者はこのHPで「メルシーちゃん」というキャラクターをPRしています。最初は笑っていた人もいました。今もいるかもしれません。「いい年をして何だ、これは」と言った人もいました。「何だこれは宗教か」と言った人もいました。しかし、筆者は苦闘の末に最終的にこのキャラクターにたどり着いたのです。人類の希望の魂=ダイヤモンド魂=人類の心の太陽=メルシーちゃんに。笑われてもいいのです。筆者はこのHPで発表している通りの考え方にたどり着いたのですから。ですからあなたもあなたの考えでいいのです。

G いくら立場が弱くても闘わなければならないときは闘え!!

生活していると様々な局面に遭遇します。例えばあなたが仕事のことで何らかのあなたの不利になるようなことをでっち上げられて、あなたを今のポジションから排除しようという動きがあった場合、あなたはどうしますか。そこで闘うのはしんどいのですぐに従いますか。それともそんなことを画策している者に正々堂々と立ち向かっていきますか。要はこんな汚いことまでする者と徹底的に闘いますか、ということです。いくら自分の立場が弱くても人間は闘うときは闘わなければならないのです。人と争うことはどうも苦手だ、人と波風立てない方が良い、と言っていられない局面もあるのです。そんな局面から逃げていると逃避癖がついてしまいます。負け癖がつくのです。結果的に情けない人間になり下がってしまいます。「闘わなければならないときは毅然として闘う」という強い意志が必要です。そうすればやられっぱなしということにはなりません。

H どうせ人間は死ぬ、ならば・・・・

この世は「ゴロゴロ」していても確実に時間は過ぎていきます。1秒、2秒、3秒・・・・と。スマホでゲームをしていても同じです。昼寝をしていても。何をしていても確実に時間は過ぎていきます。そして最後はどうなるか。それは「死んでしまいます」。そのことはすでに確実に100%決定していることです。あなたは生きている縄文人に会ったことはありますか? あなたは生きている平家の平清盛さんに会ったことはありますか? ないでしょう。みんな死んでいないのです。当たり前です。しかし、今、あなたは何をしていても生きています。これは事実です。それではあなたの命は何によって維持されているのでしょうか。大きく言えばそれはあなたの命を誕生させた「宇宙」によって維持されているのです。「自然」と言ってもかまいません。このあなたを誕生させた親の宇宙は今、どうなっていますか。昼寝をしているのでしょうか。スマホでゲームをしているのでしょうか。どっかに引きこもっているのでしょうか。そうではありません。

宇宙はすなわち、地球、太陽、天の川銀河のことです。ご存じのように、これらは凄まじい速さで動き回っています。地球は太陽の周りを秒速約 30km で回っています。時速に直すと約 108,000km です。そのお陰で四季があります。そして赤道上での地球自転速度は時速約 1,666km です。秒速で約 500m です。太陽は天の川銀河の中心を秒速約 218km で公転しています。これは東京都からだいたい福島市の距離です。東京都から福島市まで 1 秒で行ってしまうスピードです。時速に直すと 784,800km です。天の川銀河(直径10万光年)も回転しています。一回転するのに約 2 億 5,000 万年かかります。太陽系での天の川銀河の回転速度は秒速約 240km です。また天の川銀河は時速約 2,160,000km の速度で宇宙空間を移動しています。秒速 600km です(約2兆年後には今の銀河等の星々は見えなくなると考えられています。要するに宇宙は暗闇になるということです。宇宙の膨張速度は速くなっているのです。最後には光速を超えると予想されています)。地球は天の川銀河の田舎の隅っこにあります。

※天の川銀河の大きさは直径10万光年です。その長さを130qに縮小して換算した場合、太陽系の直径は2mm(ミリ)です。これでだいたい天の川銀河の大きさが推測できると思います。自分の住んでいる地点から130q先を想像して太陽系にあたる2mmの円の紙切れを足元に置いてみてください。そうすると天の川銀河が頭の中で一望できます。

このようにあなたの命を維持している源の親である宇宙は一秒たりとも休む暇なく超高速で大忙しなのです。休む暇なしです。この超高速で動いているお陰であなたの命は維持されています。そろそろあなたもこのことを思って人生の生き方を考えてみませんか。どうせ死ぬのは決まっているのだから、ここで一念発起して「これだけは達成して死ぬこと(何か世の中のためになること)」を見つけて頑張ってみませんか。親の宇宙のような超高速でなくても、まずはゆっくりとそろそろ始動しませんか。まずは図書館へ行ってためになる本を読んでもいいのです。まずは0(ゼロ)から1(イチ)へ。そろそろ何かに本気になることを考えてみませんか。

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「メルシーちゃん」を頭に焼き付ければあなたは変わります。

※ プロスキーヤ―で冒険家の三浦雄一郎氏は90歳になったらエベレスト登山に挑戦しようと準備しています(2019年現在86歳)。三浦氏は高齢になって2回エベレスト登頂に成功しています。人間にとって挑戦するのに年齢は関係ありません(なぜ人生に明確な目標が必要なのか)。今、引きこもっている高齢の方も何か自分の出来ることに一念発起してみませんか。

I なぜ生きるのか?

なぜあなたは山に登るのですか? と山登りの男に誰かが質問しました。そうすると山登りの男は「そこに山があるからだ」と答えたそうです。格好のいい答えでも何でもない答えです。また意味深い答えでもありません。難しい哲学的な意味のある答えでもありません。感動するような答えでもありません。ただただ実直な答えです。要はそこに山が存在しているから登るだけだ、ということです。ただそれだけなのです。

それを「あなたはなぜ生きるのですか?」ということに当てはめてみましょう。そうするとあなたはどういう答えになりますか。筆者は「人間に生まれてきたから人間とし悔いなく生きるだけだ」となります。これを山に住んでいる熊に質問すれば「熊に生まれてきたから熊として悔いなく生きるだけだ」となります。空を飛んでいるトンビに質問すれば「トンビに生まれてきたからトンビとして悔いなく生きるだけだ」となります。アフリカに住んでいるライオンに質問すれば「ライオンに生まれてきたからライオンとして悔いなく生きるだけだ」となります。台所に住んでいるゴキブリに質問すれば「ゴキブリに生まれてきたからゴキブリとして悔いなく生きるだけだ」となるでしょう。

※「悔いなく」とは「一生懸命に」という意味です。熊さんもライオンさんもゴキブリさんも一生懸命生きています。人間も負けられないのです。

お釈迦様は人間として生まれてくる難しさを次のようなたとえで説法されました。「深い大海の中に小さな針を落として、それを後で探して見つけるようなものだ」と。ちょうどそれは現代で言うならば「高度一万メートルを飛んでいる飛行機から小さい針を地上に落としてそれを探すようなものだ」となります。このように人間として生まれてきたことは一つの「奇跡」です。当たり前ではないのです。あなたが今この地球という惑星で人間として生きていることは何を意味するのでしょうか。難しい答えではありません。その答えは「人間に生まれてきたから人間として悔いなく生きるだけだ」なのです。あなたは今「本当に人間として今これでいいのだろうか」と自問自答してみてください。そして最後に「人間として生まれてきたことに感謝します。両親に感謝します」とだけ声を出して10回叫んでください。

J 具体的な簡単な自己改善法

1) 大きい額入りメルシーちゃんをお部屋に飾る(心の太陽を出現させる)。

2) 朝起きたとき「木さんありがとうございます。空気さんありがとうございます。地球さんありがとうございます。太陽さんありがとうございます。宇宙さんありがとうございます。今日一日【※・・・・】のために一生懸命頑張ります。必ずやとげます。」と声を出して言う。

3) 寝るとき「今日一日ありがとうございました」と言って寝る。

たったこれだけで良いのです。ただし文中の2)の【※・・・・】だけは自分で考えてください。どんな小さい目標でも良いのです。例えば「家族の食器を全部洗います」とか「1q歩きます」とか「居間を掃除します」とか「図書館から借りてきた本を3ページ読みます」でも良いのです。日替わり定食ならぬ、日替わり目標を設定してそれを実行します。ただし、目標の7割ないし8割達成すればそれでよしです。問題は毎日続けることです。これが重要です。

なぜ重要なのか? それは必ず頭の中に「今日は何々をやろう」と思いつきます。しかし、もう一人の自分が「面倒くさい、やめておこう。スマホでゲームをしていた方が楽だ」等とささやく公算が強いのです。なぜか? 心が疲れているときは実行力と決断力が弱くなるからです。そのためにそういうことになります。そのことを理解してもう一歩踏み出しましょう。「そうか、私は実行力と決断力を少しでもつけるためにこの日替わり目標を設定している。ここは踏ん張って実行してみよう」と思ってください。毎日そういうことを思って生活していけばだんだんと実行力と決断力がついてくる可能性は大きいのです。とにかく「心のリハビリ」と考えて対応してみてください。リハビリとは少しずつ前向きになって訓練することなのですから。毎日自分に勝つか負けるかの訓練をしていくうちに心は少しずつ鍛えられて「自分に勝つ方向」への道が開けます。人生の中では「弱い自分に勝つこと」すなわち「言い訳」を排除することが問題解決へのキイワードなのです。そのために毎日続けることが重要なのです。

◎ 今、引きこもりを選択して「引きこもっている方」が一番に認識しなければならないこととは?

ここから人間的、精神的に大きく成長していく本当の人生が始まるのだという認識を持つことです。引きこもりは終わりではありません。あなたが成長する始まりなのです。人間は、まずは本当の自分を知らなければどんな手を打ったらよいか分からないのです。

※「引きこもり」は一見マイナスのように見えますが、実はそうではありません。下記の複数のプラスの価値があります。

1) 今までとは違う新しい生き方に挑戦できるチャンスが与えられた。

※ 何の問題もなくスムーズに人生が進んでいる人よりも、新たなる「夢」を持つことの出来る人生を創造できる可能性があります。「普通の人生は面白くもなんともない」ということも言えるのです。面白い独自の人生を歩むことも可能になります。そうするためには下記の2)から4)までのことを実行して「己」を深く掘り下げる必要があります。そうすれば「本当の己」を発見出来ます。「本当の己」とは「何も分かっていなかった自分」すなわち「馬鹿な己」を理解するのです。そこから本当の人生は始まるのです。「私が馬鹿だった」から始まる人生は、すべての経験や勉強等して得た知識等がすべてあなたの血肉となります。

人間の偉大さと尊厳について(人間は考える葦である)

2) 自分の内面を徹底的に見つめ直す絶好のチャンスと時間が与えられた自分は何者だ、ということを考える時間も与えられた(意外と人間は自分が何者なのか分かりません)。

3) 「人間とは何か」と「人生とは何なんだ」等のことを考える時間が与えられた。

4) 読書する時間が与えられた。

まとめ

No1.GFIT法を実践するNo2.徹底的に自分を見つめ直すNo3.真実から目をそらすのではなく、真実を直視するNo4.ダメな自分と、何も分かっていなかった自分(=馬鹿な自分)を発見する(本当の自分の発見)No5.そんな自分を認めるNo6.新しい人生が始まる

※ 真実から目をそらすと自分をごまかす人間になります。そうすると人とのコミュニケーションがとれなくなる可能性があります。本当の自分を発見し、それを自分で認めれば救われます。また、「今の自分がこうなったのは、何々のせいだ」と言ってその責任を他の人や、他の理由にして生きることは、益々真実から遠ざかります。

「こうなったのはすべて自分に責任がある」と認めて奮起し、人生を努力することは一つの自分の壁を破ることになります(言い訳の人生はどんどん心の借金が増えて、魂が滅びる方向へと向かいます)。 ここも参考

◎魂の滅びとは?努力することは汗をかくことです。これはつらいことなのです。しかし、これを避けて生きて行くと、人生というエンジンが不完全燃焼を起こします。そうすると魂にその燃えカスのカーボンが貯まり最後にはエンジンが止まることです。

 

K 「どんな仕事でもいいからやってみよう!!」という前向きな気概があなたの「殻」を破り、新しい発見をもたらし、人生に窮しない

人間はきれいな仕事につきたいと普通は考えます。職安に行った人なら分ると思いますが、みんなきれいで楽な仕事をさがしています。そんな仕事はなかなかありません。職業選択の自由はもちろんありますが、困ったときは「何でもしてやろう」という心になったとき、あなたは、心の殻を破ったことになります。そうなれば仕事はたくさんあります。一般の人たちから敬遠されているような仕事でもやってみると意外と新しい発見があるものです。そしてそういう仕事は奥が深いのです。そして一生懸命にがんばっていると今まで自分の視野が狭かったことを悟ります。人間が「食べていくこと」の何たるかがきっと分ると思います。そして続けていくうちに新しいアイデアも浮かぶかもしれません。プラスの新しい出会いもあるかもしれません。「どんな仕事でもしてやろう!!」という前向きな気概があれば人生に窮することはなくなります。生活していく道が開けるのです。人生にはそういうたくましさが必要なのです。  まずは0(ゼロ)から1(イチ)へ

L 挫折や失敗はお宝だ!! これを経験しなければ成長はない!!

今、引きこもっているあなたは人生の貴重な経験をしている!!

人間はなぜ挫折や失敗をするのか? その答えは「人間の中に聖人君子はいないから」です。人間は失敗もするし挫折もするのです。間違うこともあるということです。ただ、大切なことはその失敗等や、間違ったことをどのようにプラスの考え方に転換して、その失敗や間違ったことを今後に生かしていくか、にあなたの人生は決まっていくのです。

人生には挫折、失敗というお宝がある
テレビ等では「お宝ブーム」です。あなたは古文書や美術品等だけが「お宝」と思っていませんか。「お宝」は他にもあるのです。それは「挫折、失敗」という「お宝」です。それを聞いて「えっー!!」と思ったのに違いありません。普通、挫折、失敗は挫折、失敗の何ものでもありません。ところがこのマイナスの中にこそ「お宝」の源となる「お宝元素」が隠れているのです。まず、人類の歴史を見てみましょう。今我々が多くの便利な機械、飛行機等やいろいろな病気に効く薬等々、その他多くの人類に貢献しているモノは、人類が様々な課題に挑戦してきた結果によって得られたものです。それらは最初から様々な原理や真理等が解って発明、発見されたわけではありません。多くの失敗や挫折の積み重ねによって原理、真理等に到達して多くの発明等につながっているのです。簡単に言うと先人の挫折と失敗がなかったら今の私たちの文明は存在していないということです。挫折、失敗のお陰で新しいことが解り、次の課題へと進むことができたのです。そして最終的に目標を達成してきたのです。だから「挫折、失敗」は神様と言っても過言ではありません。だから「お宝」なのです。

挫折、失敗=神様=お宝

人間は万全の準備をしたつもりで「様々なこと」を進めます。しかし、それでも挫折や失敗する場合があります。誰もが失敗等はしたくないのですが、失敗するのです。この世の中には失敗等しようと思って失敗等する人はいません。しかし、失敗等するのです。それはなぜか? それは私たちが人間だからです。不完全な人間だからです。私たちは聖人君子でもなければ神様ではないからです。それが答えです。

挑戦=挫折、失敗と言っても過言ではありません。挑戦には失敗等はつきものです。この失敗等のマイナスに対する考え方によって人間は運命が決まります。失敗等しなかったら絶対に「新しい価値の扉」は開きません。「新しい価値の扉」の鍵は「挫折、失敗」です。だから失敗等を恐れていたら前に進むことは出来ません。

先人の教訓=挫折や失敗をしても、それにめげずに何回もあきらめずに前進する=人間が鍛えられ人間的に成長出来る

1回失敗して死んだ男と、100回失敗して101回目に成功した男

だから、今「引きこもり」という挫折をしても悲観する必要はないのです。次の飛躍に必要な経験の一つです。日本は一つでも失敗や挫折すればそれで終わりという雰囲気を醸(かも)し出しています。しかし、それは真実ではありません。真実は失敗や挫折が人間を鍛え、成長させてくれるものだ、ということです。だから、大いに悩んで苦しんで徹底的に自分を見つめ直しましょう。そうすれば「本当の自分が分る」という恵みを受けます。「本当の自分が分る」このことはあなたが大きく飛躍するためのエンジンになります。

人間は苦しんだ分の量によって得られる恵みの量が違います。もちろん苦しんだ分の量が多ければ多いほど恵みの量は多くなります。だから挫折や失敗をしない人は、恵みはありません。人生の中で得られるものはないということです。挫折や失敗は実は人生の勲章なのです。アメリカでは何かに挑(いど)む、すなわち挑戦する人間は高く評価されています。その結果がたとえ挫折、失敗しても高く評価されるのです。そのマイナスから多くのことを学ぶ人間になるからです。日本は減点主義を取っているので自ら何かに挑む人間は少ないのです。みんな減点される(評価が下がる)のを怖がっているからです。結局何もしない方が利口だと思っているのです。今、求められるのは挫折、失敗を恐れない人間です。そんな人間になってください。挫折、失敗しても最悪命まで取られることはありません。命さえつながれば何とかなるのです。

あなたを成長させてくれるのは世の中の他人ではありません。あなた自身です。だから、引きこもっている状態でも何かに挑戦しましょう。何でもいいのです。挑戦し続けましょう。

ただし、何をやるにも人生の第一歩は人間の善性に目覚めることです・・・・善性に目覚めないと悪という誘惑に勝利できません。

挑戦するものの一例・・・本を読むこと、何かのボランティアに挑戦、散歩すること、走ること、何かの資格を取ること、正しい信仰への挑戦等々、要は何でもいいのです。但し絶対に犯罪等の悪に挑戦してはなりません。善に挑戦しましょう。悪に挑戦すると最後は刑務所です。

ダイヤモンド魂になれると約束された「石ころの甚八石」

以上

終わり

もし、あなたが「憎悪」をためこんでいるならば

人生の「壁」はなぜ存在するのか?  それはその「壁」を破るために存在する  「壁」があることは、今、あなたにチャンスが与えられていることなのです  「引きこもり」はあなたが大きく飛躍するためのエネルギー充電タイムだ  新たな生き方を見つけろ!!  その気になればあなたは出来る!! 

まずは自分の内面を徹底的に見つめなおしましょう

【人類の光と影】

児玉春信

人類は大きくまとまろうとする寛容という精神は、必ず「個の力(又は個別の国の力)」を削(そ)ぐ場合があります。それは人類の影でありマイナス面です。そのために「過度の固執」が起きる場合があります。今世界では極右勢力が台頭してきています。これらはその初期現象としてとらえることが出来ます。人類は過去において「過度の固執」によって大きな虐殺事件も起きています。今起きているテロ事件もそんな「過度の固執」によって起きているのです。それらは人類の影の部分に入ります。その影は寛容さを許せないのです。

人類の「個の力」は人類の発展の原動力になってきたことは間違いありません。産業革命以来人類はすさまじい速さで発展してきました。そして莫大な富を得てそれを原資にしてさらに大きく発展しているのです。これは人類の光の部分です。人類の光は大きくまとまって光り輝くものではないのです。個別の国や個の力という最小単位の中でまとまった場合、大きなパワーとなって光り輝くのです。そのことを経験した人類は大きくまとまろうとすることに対して自然と反発するのです。

日本では昔から「仏の顔も三度まで」ということわざがあります。人間は良い顔ばかりはできない、ということを言い当てていることわざです。「良い顔」とは何か? それは他人に対するサービス精神旺盛な顔ということです。それには限度があるということを言っています。要は他人のことばかりに関わってはいられない、ということなのです。自分が一番だ、ということに回避してしまうのが人間だ、ということなのです。自国一番。アメリカンファースト等々と何々ファーストがはやり始めました。世界の流れは仏の顔の時代は終焉(しゅうえん)したと言っているようなものです。これは個の力、個別の国の力で勝負したいという欲求が人類の心にまた、芽生えてきたことを意味します。それは栄光の光を得たいという願望でもあります。求めているのは光なのです。

しかし、人類が産業革命以来、光を求めてきた結果はどうなったのか。それは「地球温暖化」を招いてしまったのです。この問題を甘くとらえることは出来ません。深刻な問題を提起しています。それは自国だけ繁栄すればいい、ということは許されないことを意味しているからです。何々ファーストは許されないということなのです。そのことに人類は気付く必要があります。そして人類全体を観なければならない時代を人類は迎えているということを意味します。過去の栄光は人類全体を観なくてもよかったのです。しかし、現在は違います。人類は必然的に一つにまとまらなければならない時代に突入したのです。一つにまとまるにはどうしたらいいのかはここをご覧ください。

人類は「寛容」という光を発すればその影として「過度の固執」という影を創り、「栄光」という光を発すれば「地球温暖化」という影を創るのです。人類が今直面している問題は人類の未来をも決定していくものです。その最たるキイワードは「寛容」を選択するか「非寛容」を選択するかのどちらかです。中間はないのです。今人類は心が揺れ動く時期を迎えています。しかし、最後は大きな決断をしなければならないのです。大きな決断は影を創らないと考えます。中途半端の決断は影を創ると考えます。人類は今正念場を迎えているのです。大きな決断に失敗すると取り返しのつかない未来が待っているような気持ちになります。大きな決断とは何か? それは大きな大切なモノを捨てることです。今人類は捨てる時が来たのです。捨てた時人類の未来像がはっきり見えてくるはずです。この機会に「人類の光と影のこと」を考えてみませんか。

◎人類の叫び・・・(いろいろな考え方があるのでまとまらない)
No1. 先進国ばかり良い思いをして何だ!! これからは後進国の我々が良い思いをする番だ。
No2. 地球温暖化は先進諸国が招いたものだ。責任は先進諸国にある。
No3. 地球温暖化は根拠のない妄想だ。

※ 現在、立場よって様々な意見が飛び交っています。しかし、筆者が感じることがあります。それは37、8年前までは夏の午後2時から3時の間に外で帽子をかぶらずに魚釣りが出来たのですが、しかし今は2分ぐらいの短い時間でも暑くて魚釣りは出来ません(筆者の故郷の新潟での体験)。これは事実です。
◎人類が二酸化炭素をまとめて地中に埋める技術などの処理技術を開発すれば地球温暖化を防ぐことが出来る可能性があります。

科学者からのメッセージの要約

No1. 2019年の今から10年の間に何も手を打たないと地球環境は取り返しのつかない状況になると警告しています。
No2. 地球環境は2019年からあと10年が勝負ということです。
No3. 人類はあと10年間に地球温暖化を人類一丸となって防ぐ必要があると言っています。
No4. 人類はのんきに構えている時間はないということです。



ひきこもりむすこの``じんごろう``

しおばらおんせんのおんせんやどの「もみじや」の「そんだべぇーむすめのおりゅうさん」のもんだいを、かいけつしたしゅぎょうそうの、せいしんは、つぎのもくてきちの、にっこうへと、いそいでいました。にっこうでは、おおきなもんだいが、まちうけているのでした。せいしんは、はたしてどんなほうほうで、このもんだいを、かいけつするのでしょうか? なお、このものがたりはすべて、かくうのおはなしです。

さくしゃ  こだまはるのぶ

しおばらおんせんをしゅっぱつし、とちゅうで「そんだべぇーむすめのおりゅうさん」らとわかれた、しゅぎょうそうの、せいしんは、にっこうへとむかっていました。かいどうのとちゅうのむらむらでは、あいかわらずこどもたちが、せいしんにむかって「このこじきぼうず、あっちへいけ!! あっちへいけ!!・・・・」といっては、いしをなげつけて、ばかにしていました。そんなこどもたちに、せいしんは「ひとを、みためでばかにすると、てんばつがくだるぞ!!」と、どなっていました。それをきいたこどもたちは「うちのかあちゃんが、よのなかでいちばんだいじなのはおかねだ、といっていた。かねをもっているにんげんが、いちばんえらいんだ!! てんばつもくそもねぇ!!」といいかえしてきたのです。せいしんはそれをきいて「よのなかもおわりか!!」とこころのなかでおもいました。そしてすぐに、こどもたちに「このばかやろう!! おかねは、つきとおなじだぞ。みちたりかけたりするぞ。しかし、そうはいっても、かねもたいせつだが、まずにんげんは、つきよりたいようにならなければならないのだ。だいやもんどだましいをもたなければならないんだ。うちへかえったらかあちゃんにそういっておけ!! わかったか!! そしてなぁ、おまえたちがやっていることは、すべて、てんがきろくしているのだぞ。てんを、ばかにするんじゃねぇ!!」といいきかせていました。そんなことをいっているあいだに、あたりは、すこしくらくなってきました。せいしんは、にっこうのおんせんやど、へといそぎました。

にっこうについたせいしんは「さて、どこの、やどやにとまろうかなぁ?」とおもって、あたりをきょろきょろとみまわしていたら、とつぜんおおきなこえがしてきました。「おれが、こんなにんげになったのは、とうちゃんと、かあちゃんのせいだ!! ふたりとも、しんじまえー!!」というおおきなこえが、せいしんのみみにはいりました。せいしんは、ただごとではないとおもい、そのこえのするほうへといってみました。そこは「いろはや」という、おんせんやどでした。そしておそるおそる「こんばんわ、なにかあったのですか?」といって、そのやどのげんかんに、はいっていきました。すると、そのおんせんやどのしゅじんがでてきて「いらっしゃいませ。ようこそおいでくださいました。おーい、おきくや、おきゃくさまだぞ。あしをあらってやっておくれ」といいました。すぐにそのしゅじんのにょうぼうの、おきくがきて、せいしんのあしを、あらいはじめました。せいしんは「まだ、ここにとまるかどうかきめていませんでしたが、きょうは、おせわになることに、いま、きめました。ところでさっきおおきなこえがしたのですが、なにかあったのですか?」とおきくにいいました。おきくは「おぼうさんだからおはなししますが、じつは、ひとりむすこのじんごろうがおりまして、そのむすこが、おおきなこえをだしたのです。いつもきんじょに、めいわくをかけています。どうしようもないひきこもりむすこにそだってしまいました。しょうじきいって、てをやいています」と、あしをあらいながらせいしんにかたりかけました。するとせいしんは「くわしいことは、わかりませんが、ふつうではなさそうですね。もしよろしかったら、ゆうはんをたべたあとに、くわしいことを、きかせてくれませんか。こんなこじきぼうずですが、もしかしたら、ちからになれるかもしれません」と、おきくにつげました。それをきいていたおきくは「そういっていただいても、はじめておあいしたかたに、そんなことはむりです。それにうちのことですから。でもいちおう、しゅじんにそうだんしてみます」といいました。それでせいしんは「わかりました」といって、じぶんのとまるへやへと、おきくにあんないされていきました。

おんせんにゆっくりはいって、ゆうはんも、たべおえてよこになってやすんでいると、そこのしゅじんと、おきくが、せいしんのへやへ、やってきたのでした。しゅじんが「おやすみのところまことにきょうしゅくです。わたしは、ここのしゅじんの、じんすけ、ともうします。これは、わたしのにょうぼうの、おきくともうします。おきくからそうだんをうけまして、あなたさまに、いろいろとそうだんしてみようということになりましたので、おたずねしました」と、せいしんにいってきたのです。それをきいたせいしんは「そうですか。こんなわしでもよければ、おちからになれるかもしれません。それにしても、じんすけどの、にっこうもいいところですね。いろはざか、からのけしきは、すばらしいというではないですか。けごんのたき、というじつにすばらしいたきもあるし、おんせんもいいし、にんじょうもあり、りょうりもうまい。おんなのひともきれいだ。いうことなしですねぇ。ところで、わしもさいしょびっくりしてしまったよ。いきなり、しんじまえー、だからな。まぁ、それでえんがあったわけなんだが。いったいどうしたというのですか?」と、じんすけにはなしました。じんすけは「そのまえに、おきゃくさんは、たびをしながら、しゅぎょうしているおぼうさんですか?」といってきたのです。それをきいたせいしんは「すまん、すまん。じこしょうかいがおくれました。そうです、わしは、ぜんこくをたびしながら、しゅぎょうしている、しゅぎょうそうの、せいしんともうします。よのなかもあれてしまいまして、なんでも、かね、かね、かねのよのなかになりましてねぇ。とちゅうで、あうこどもたちでさえ、かねのことをいっています。それにくわえて、やたらと、じさつしてしまうにんげんもふえましてねぇ。こんなよのなかを、このめでみてみたくなりまして、たびをしているものです。きているものは、きたないですが、かんべんしてください。かねがないもので、あたらしいものをかうことができないのです。まぁ、こんなものですが、えんがあったとおもって、なんでもはなしてください」といいました。それをきいていたじんすけは「そうだったのですか。わかりました。それではくわしいことを、にょうぼうのおきくのほうからはなしてもらいます。おきく、せいしんさんにむすこのじんごろうのことを、くわしくおはなししておくれ」と、おきくにいいました。それをきいていたおきくは「はい。わかりました。じつは、わたしのいえは5にんのおとこのこどもがいたのですが、4にんが、ちいさいときにしんでしまったのです。むすこのじんごろうは、すえっこです。そのためにだいじに、だいじにそだてました。そしてあととりは、じんごろうなので18さいのときに、なすの、なすおんせんのおおきなおんせんやどに、いたまえとしてしゅぎょうにだしたのです。ところが、はんとしもしないうちに、なにがあったのか、わかりませんが、とつぜんうちにかえってきたのです。なんとか、いちにんまえになってもらいたいとおもっていたものですから、びっくりしてしまいました。くわしいことは、なにひとつはなさないのです。それいらい、うちにひきこもって、ただじぶんのへやにいます。ときどきおきてきては「こんなおれになったのは、とうちゃんと、かあちゃんのせいだ。ふたりともしんじまえー!!」と、どなるのです。しゅじんと、わたしをせめるのです。そして、ときどきあばれます。へやのなかは、しっちゃかめっちゃかです。ときどきわたしがそうじをしています。ひとりでできないのです。おおきなこえをだすものですから、せけんさまにもうしわけなくて。ほんとうにこまっています。なにかいいちえは、ございませんでしょうか?」とせいしんにはなしました。それをきいていたせいしんは「そうですか。それはごしんぱいですね。さいきん、じんごろうさんのようなわかものがおおいのです。わかものだけでなく、30だいから50だいにかけても、そんなひとがふえています。ぜんこくをたびしているので、そんなじょうほうもはいっています。こまったもんだいです。ところで、いままで、じんごろうさんは、なにかもんだいをおこしましたか?」とじんすけにはなしかけました。それをきいていたじんすけは「いたまえにしゅぎょうにいくまえに、やたらとおみせから、なにかをかってきては、おみせにかねをはらわないことがありました。そのたびにわたしがみせにあやまりにいっておかねをはらっていました。そんなことがありました」それをきいていたせいしんは「うーん。そんなことがあったのですか。ところでこどものときに、なにかもんだいをおこしませんでしたか?」と、またもやじんすけにききました。するとじんすけは「てらこやに、よみかきをならわせているとき、よくわすれものをしたので、うちのおきくが、すこしはなれている、てらこやまで、そのわすれものをとどけにいっていました」といいました。せいしんはすぐに「うーん。そうですか。そんなことをしていたのですか」と、ひとこといったきりだまってしまいました。しばらくちんもくがつづきました。そしてとつぜんせいしんが「ふたりにかくにんしたいのですが、こどものころふたりでじんごろうさんをかわいがりましたね」といったのです。それをきいていたじんすけは「はい。4にんもしんだものですから、それは、それはかわいがりました。なんでものぞむものはあたえました」とせいしんにこたえました。それをきいていたせいしんは「まぁ、このひきこもりというのは、なかなかむずかしいもんだいなのです。たんじゅんにかんがえられないもんだいなのです。しかし、いま、おはなしをきいて、じんごろうさんのばあいは、どうもおやのそだてかたにもんだいがあったようにおもえてならないのです。じんごろうさんの、じりつしんと、せきにんかんを、ことごとくつぶしてきたのではないかと。こどもがかわいいのはわかります。かわいがらないとだめなこともわかります。しょくぶつは、こやしをやりすぎるとだめになってしまいます。にんげんも、しょくぶつとおなじで、あいじょうというこやしをやりすぎるとそだたないのです。じりつしんや、せきにんかんがそだたないということです。それが、うちゅうのほうそくというものなのです。すこしきびしいかんきょうのほうが、しょくぶつは、じぶんのちからでえいようをきゅうしゅうしようと、がんばるのです。そのけっか、しっかりとした``ね``になり、じょうぶなしょくぶつにそだつのです。にんげんのこころも、そういうものなのです。ゆきのおおい、きたぐにのきは、ざいしつがしっかりしています。それはきびしいふうせつにたえたけっか、そうなるのです。ぎゃくに、みなみのきはそのぎゃくです」といいました。それをきいていたおきくは「それでは、どうすればじんごろうは、いちにんまえになることができるのでしょうか?」とせいしんにしつもんしてきました。せいしんは、しばらくかんがえて「うーん。きょうはここまでにして、ひとばんかんがえさせてください。あす、どうするかおはなしします」と、ふたりにつげました。それをきいていたじんすけは「わかりました。よろしくおねがいします」と、せいしんにいいました。そしてふたりは、せいしんのへやからでていきました。

 じぶんたちのへやにもどったおきくは、じんすけに「なんだか、あのおぼうさんだいじょうぶかしら。すがたかたちをみたら、そんなぎもんがわいてきたわ。あんな、どこのうまのほねかわからない、おぼうさんに、たいせつなひとりむすこのことをまかせて、ほんとうにだいじょうぶなのか、しんぱいになってきました」といいました。それをきいたじんすけは「ことばにきをつけなさい。ひとはみためではありません。はなしをきいていたのですが、まっとうなおはなしだとおもいました。まちがってはいないようにおもいます。ほんとうは、わたしたちがまちがっていたのかもしれません。ここはせいしんさんにおまかせするしかみちがないようだ。せいしんさんをしんじるのです」と、おきくにいいきかせました。それをきいていたおきくは「そうですね。あとはほうほうがうかびませんものね」といいました。そしてふたりは、あしたの、あさごはんのじゅんびをして、ふろにはいり、ねました。

 せいしんはひとりなやんでいました。しおばらおんせんのおりゅうさんはうまくいったが、はたして、このいえの、せがれのひきこもりもんだいは、うまくかいけつするかどうか、じしんがなかったのです。ひきこもりは、ふくざつなもんだいが、からんでいるばあいが、おおいのでたんじゅんなかんがえでは、なかなかかいけつしないもんだいだとわかっていたので、せいしんのなやみは、ふかまるばかりでした。そのためなかなかねつくことができませんでした。しかし、ひとつのかんがえがよぎりました。あるひとつのかんがえにかけてみようとおもったのです。そして、ねざけようのにほんしゅをすこしのみ、あんしんしたのか、しぜんとねこんでしまいました。

 よがあけました。あさごはんもおえて、じぶんのへやでやすんでいると、じんすけと、おきくがやってきました。そしてじんすけが「せいしんさん、なにかいいちえは、うかびましたか?」といってきたのです。それをきいたせいしんは「まぁ、おふたりともすわりなさい。まずは、おちゃでものみましょう」といって、せいしんみずからふたりにおちゃをだしました。ふたりはきょうしゅくそうに、そのおちゃをのみました。しばらくするとせいしんは「このもんだいは、なかなかむずかしいもんだいです。おふたりにかくごをきめてもらわないと、なかなかとりかかれません」といったのです。それをきいたおきくは、びっくりしたようすで、せいしんにといただしました「かくごとはどういうかくごですか?」と。それをきいたせいしんは「いきるか、しぬかのかくごです」と、きっぱりといったのです。そのことばをきいたふたりはびっくりしてしまいました。そしてかおをみあわせて、しばらくそのままでいました。そしてじんすけが「そんなおおげさなもんだいなのですか?」といってきました。するとせいしんは「そうです。じんごろうさんのいっしょうのもんだいです。そしてこの``いろはや``のしょうらいのもんだいです。あなたがたは、きのうきいたかぎりでは、三つのまちがいをおかしています。ひとつはおかねのもんだいです。じんごろうさんが、おみせにしはらわなかっただいきんを、かわりにしはらったこと。それとわすれものしたとき、おきくさんが、もっていったこと。それとじんごろうさんのへやのそうじです。この三つです。まず、おかねをしはらわないと、よのなかではどうなるのかということを、みをもって、しらしめるひつようがあったのです。しはらわなかったおみせから、ぶぎょうしょに、うったえてもらい、じんごろうさんをつかまえるべきだったのです。あなたはそれではかわいそうだ、とおもわれるかもしれません。しかし、そのかわいそうだ、かわいそうだ、というのがじんごろうさんを、ますますずにのらせ、おやをなめるにんげんにしていったのです。それでだめになったのです。おかねをしはらわなければ、よのなかというのはこういうことになるのだぞ、という、ぜっこうのきょういくの、きかいをつぶしたのです。それとわすれものですが、これもじぶんでわすれたのだから、じんごろうじしんに、とりにこさせればよかったのです。これもじぶんのせきにんというじかくをそだてるきかいをつぶしてしまったのです。つぎにへやのそうじです。そんなものは、ほんにんにやらせればいいのです。どんなによごれても、けっして、おやが、てをだしてはいけません。じぶんのへやは、じぶんでそうじをさせるのです。かりにうじむしがわいても、てをだしてはいけません。そのなかでせいかつさせるのです。そうじをしなければどうなるのか、ということをたいけんさせるのです。このきぜんとしたおやのたいどが、たいせつです。さいごは、おやがなんとかしてくれるだろう、というあまえがあるのです。これではせきにんかんも、じりつしんもそだちません。きびしいいいかたかもしれませんが、こういうこまかいところがだいじなのです。かなめです。ただかわいそうではだめなのですよ」とふたりにいいました。それをきいていたふたりは、かたをがっくりとおとしてしまいました。そしてじんすけが「せいしんさん、さっきのかくごですが、もうすこしくわしくおねがいします」といいました。するとせいしんは「じんごろうさんのいのちを、わしにあずけるかくごということです。きのうきょうと、たったのふつかのつきあいですが、こんなこじきぼうずに、たいせつなひとりむすこのいのちを、あずけることができるかどうかということです。すベて、わしにまかせてもらえるかどうかということです。かりにじんごろうさんが、とちゅうでしんでも、ぶぎょうしょに、うったえないということです。いっぴつかいてもらうということです。それでいきるか、しぬかといったのです」と、きっぱりとじんすけにいいました。それをきいたおきくは「なんだかこわくなってきました。せいしんさん、そんなあらっぽいほうほうでほんとうにだいじょうぶなのですか?」と、しつもんしてきました。するとせいしんは「いや、ときにはあらっぽいことをやるかもしれませんが、きほんはそうではありません。じんごろうさんはなにもわかっていないのです。おやのありがたみや、たべもののありがたみ、くうきのありがたみ、よのなかのありがたみ、いまいきていることのありがたみ、かねのありがたみ、このいえにうまれたありがたみ、などなど、かぞえあげればきりがありません。とにかくなにもわかっていないことが、じんごろうさんのこころをだめにしているげんいんだ、とわしはおもうのです。もしかしたら、わしのけんとうちがいかもしれません。しかし、わしのけいけんからするとどうもそんなきがしてならないのです。にんげんは、ありがたみがわかったとき、ひとつのさとりをえるのです。むかしわしのどうりょうで、だんかから、すこしのやさいをもらってきては、すてていたふとどきものがいたのです。このものは、すこしのやさいのありがたみと、だんかのまごころというものが、まったくわかっていなかったのです。おそらくこばんだったらすてなかったでしょう。しかし、そのこばんでも、すくなければ、ふまんをいったでしょう。すくないやさいでも、ひとからもらったら、こころのそこからかんしゃできるにんげんにならなくてはいけません。そのひとの、めにはみえない、まごころというかちがついているやさいのありがたみを、こころからわからなければなりません。ありがたみや、まごころというのは、めにはみえないのです。このめにはみえないもののかちがわからないと、にんげんはだめになるのです。そのやさいをすてた、ふとどきものは、さいごには、だめなにんげんになってしまいました。いまは、しまながしのけいにしょせられて、はちじょうじまにいます。いっしょうそこからかえってくることはできません。にんげんは、ありがたみをわすれると、こころがだめになるのです。わしはにんげんをまずみるときは、そこのところをよくみます。そこがかなめだとおもっているからです。ですから、きほんはそういうところにおきます。しかし、ときには、にくたいもいじめなければなりません。ひゃくしょうのせがれで、ひきこもっているものはいません。かれらは、くわをつかって、あさからばんまでたんぼをたがやしています。ぜんしんのちからをつかい、はたらいているのです。そしてよるは、さけをのんでぐっすりとねるのです。ですから、にくたいろうどうは、にんげんのこころにはいいのです。らくをすると、にんげんのこころは、なんじゃくになるとおもっています」といいました。するとじんすけは「なるほど。すこしはわからないところもありますが、なかなかよいかんがえではないでしょうか。かくごがいるということがよくわかりました。それで、ぐたいてきには、わたしたちはどうすればいいのでしょうか?」と、しつもんしてきました。せいしんはすぐに「ぐたいてきには、このやどやに、わしとじんごろうさんのふたりですむということです。おふたりは、このいえからでていき、どこかで、しゃくやをみつけて、このやどやの、じゅうぎょういんになってもらいます。しゅじんは、じんごろうさんです。すべてじんごろうさんにまかすのです。なにがあっても、けっしてくちをだしてはいけません。ここがかんじんです」とこたえました。それをきいていたおきくは「わたしたちがここからでていくなんて、なにかへんです。じんごろうがでていけばいいのです。そしてここへかよってもらうのです。それではだめなのですか?」とせいしんにきいてきました。するとせいしんは「それではだめなのです。やどやのけいえいが、いかにたいへんなものかを、みをもってわかってもらうためには、しゅじんになってもらわないとわからないのです。そしておふたりが、いままで、いかにくろうしていたのか、ということを、こころのそこからわかってもらうひつようがあるのです。わざとくろうさせるのです。くろうしないと、にんげんのたましいは、みがかれません。らくなほうをえらぶと、たましいはさびるいっぽうなのです。ここもかなめです」と、きっぱりといいました。そして「ここは、おにになってもらわないといけません。あなたがたは、なにかかんちがいをしていたのです。やさしい``あい``だけが、``あい``だとおもっていたのです。``あい``には、きびしい``あい``もひつようなのです。つきはなす``あい``もひつようだということです。このことをこころにとめておかないと、にんげんが、だめになるのです。なんでもかんでもいたれりつくせりではだめなのです」と、すこしおおきなこえでつよくいいました。それをきいていたじんすけは「おきく、ここはひとつせいしんさんをしんじてまかせてみようじゃないか。どうもわたしたちは、せいしんさんのいうとおり、なにかかんちがいをしていたようにおもえてきたよ。たいへんなことだけど、はらをくくろう」といいました。しかし、おきくは、なかなか、がてんがいかないかおをしていました。そしておきくが「せいしんさん、きょういちにちかんがえさせてください。あたまのなかが、せいりできません。しゅじんとふたりでそうだんしてみます」とせいしんにいったのです。それをきいたせいしんは「わかりました。きょういちにちかんがえてください。むりにとはいいません。このやりかたは、おふたりのしょうにんと、きょうりょくがひつようです。よくはなしあってきめてください」と、おきくにいいました。そんなことで、いちおうはなしは、おわったのでした。けつろんは、あすにもちこされました。

(ここでちょっとひとやすみ おちゃのじかん) しょうひんこんせぷと

へやにもどったふたりは、すこしつかれたのでよこになりました。そしておきくが「たいへんなおぼうさんに、えんがありましたねぇ。こっちがいえをでていくなんて、どうもりかいできません」と、じんすけにいいました。するとじんすけは「いや、ひとつのかんがえかたかもしれんぞ。いままで、なんのくろうもしてこなかったじんごろうには、ちょうどいいきかいかもしれない。せいしんさんのいっていることは、まんざらまちがってはいないとおもえるのだ。おきくよ、ここはせいしんさんのいうとおりにやってみないかい?」といいました。するとおきくは「そうですねぇ。ここはてんがあたえたしれんとおもって、せいしんさんにおまかせしてみるのもひとつのほうほうかもしれませんねぇ」といいました。するとじんすけは「よし、きまった。じんごろうには、こんばんつたえよう」といって、ふたりは、すこしつかれたので、そのままひるねをしてしまいました。

そんなことがしんこうしているということもしらずに、じんごろうは、へやのなかで、もんもんとしていました。そしてときどきへんなことをいっていました。おれがこうなったのは、おやがわるいのだ、せけんがわるいのだ、うまれてきたのがまちがいだったんだ、なすおんせんの、りょうりのおやかたのやろう、えらそうにいばりやがって、ちくしょう!! などなどと、じぶんのこころなど、ひとつもかえりみず、つねにひとのことをこのようにわるくおもっていました。そうなのです、じんごろうは、すべておれがこうなったのは、おれがわるいのではなく、じぶんいがいのものがわるいのだ、とかんがえていたのです。そのかんがえからぬけだすことができなかったのです。

よるになりました。じんごろうが、じんすけと、おきくによばれました。じんすけが「じんごろう、じつはなぁ、あしたからわれわれふたりは、このいえからでていくことになった。ごはんもすべてじぶんひとりでりょうりしてたべるんだぞ。おまえに、このやどやをまかすことになったのだ。おかねもぜんぶまかす。ただし、いま、おとまりになっているせいしんさんが、おまえのめんどうをみることになっている。すべてせいしんさんのいうことをきくのだぞ。わかったか?」といったのです。おどろいたじんごろうは「えー!! ひとりでぜんぶやるのか?」とじんすけにいいました。するとじんすけは「かあちゃんと、とうちゃんは、このやどやのじゅうぎょういんとしてまいにちかよう。ただし、なにがおきてもくちはぜったいにださないことになっている。おまえがすべて、このやどやをしきるのだ」といいました。するとおきくがすぐに「とうちゃんと、かあちゃんは、おまえをなんとかいちにんまえにしてやりたいのだよ。もしそれがいやなら、``いえで``してもいいよ」といったのです。しかし、じんごろうにはそんなこんじょうはありませんでした。よくわからないまま、じんごろうは、しぶしぶりょうかいさせられました。そして、こんなことになったのは、せいしんという、どこのうまのほねかわからない、こじきぼうずのせいだとかんがえたのでした。そしてこころのなかで「あのくそぼうずめ、いまにみていろ。ただではおかないからな」とかんがえたのでした。すべてひとのせいにしていたじんごろうですから、そういうおもいにいたるのはとうぜんでした。

そして、よがあけ、すべてをまかすことを、せいしんにつげたじんすけと、おきくは、いえをでて、やどやから、すこしとおいしゃくやをかりました。ほんとうにでていったのでした。せいしんと、じんごろうのたたかいが、いよいよきっておとされたのです。じんごろうは、せいしんをうらんでいますので、せいしんをみるなり「このくそぼうず、よくもこんなことをしてくれたなぁ!! おれはぜったいにおまえのいうことなどきかないからな!!」といったのです。そのことばをきいたせいしんは、いきなりなわをもってきました。そしてじんごろうになにもいわずに、あっというまに、じんごろうのからだになわをまきつけてしばりはじめました。ふいをつかれたじんごろうは「な、な、な、なにをするのだ、このくそぼうずめ!! このくそぼうずめ!!・・・・」となんどもなんどもいいましたが、せいしんは、ひとこともくちをききませんでした。そしてそのうちに、やどやの、うらてにある、イチョウのきのえだに、なわをなげて、じんごろうをうえにつってしまいました。これではさすがのじんごろうも、ても、あしも、でませんでした。「ちくしょう!! なにをしやがる、いまにみていろ、このくそぼうずめ!!・・・・・」とさけぶばかりです。それをきいていたせいしんは、はじめてくちをひらきました。「いままでおまえはうまくいかないと、すべてひとのせいにしていきてきただろう!! そんなおまえの、くさったこんじょうを、たたきなおしてやる。いいかかくごしろ。おまえがしぬか、わしがしぬかのたたかいだ!!」といきなりいったのです。それをきいたじんごろうはびっくりしてしまいました。そしてこわくなりました。あんなにいせいのいいことをいっていたのが、ぴたりと、とまりました。せいしんは「にんげんは、じぶんのかおがみえないのとおなじく、じぶんのこころはみえない。みようともしない。しかし、ひとのこととなるとよくみえるものだから、じぶんがうまくいかなくなると、すべてひとのせいにしたくなるのだ。そのほうがらくだからな。おまえはいままでじぶんをかえりみることをしてこなかっただろう。ひとばんあたまをひやして、いままでのことを、ふりかえってみつめなおせ!! わかったか!!」と、じんごろうにつよくいったのです。それをきいたじんごろうは「くそー、くそー・・・おまえは、なんのけんりがあって、おれをこんなめにあわせるんだ!! くそー、くそー・・・・」というばかりでした。いままでそんなことをいうひとと、ここまでやるひとはいなかったのです。いやがおうでも、じんごろうは、いままでのことを、かんがえざるをえなくなったのです。そのばん、じんごろうは、ひとばんじゅうないていました。かあちゃんと、とうちゃんはいるのに、いっこうにたすけてくれません。みてみぬふりです。じんごろうは、なみだもかれてしまいました。そして、そうとうのたいりょくをしょうもうしてしまいました。

そんなよるもすぎて、あさになりました。じんごろうは、すっかり、きりょくがなくなっていました。それをみたせいしんは「だいぶまいったようだな。これではわしにかかってくるげんきもなさそうだ」といって、えだにぶらさがっているじんごろうを、おろして、なわをほどいてやりました。あんのじょう、じんごろうは、たてずに、よこにねてしまいました。せいしんは「たいりょくがあるのに、まいにち、まいにち、いえにいては、おかしくなるのもとうぜんだ」とおもったのでした。じんごろうは、こんどは、はらがへってきました。せいしんに「はらがへってきたので、なんかたべさせろ!!」というではありませんか。せいしんはすかさず「いままでだまっていてもごはんがでてきただろう。じぶんでつくってたべたことなどないだろう。おまえがたべているものは、ぜんぶおみせからかってこなければならないのだぞ。かうにはおかねがいる。おかねをかせぐには、はたらかなければならない。それなのにおまえは、はたらいていない。おやのかねでかってきたしょくりょうで、おやからりょうりしてもらい、ただそのりょうりをたべるだけだ。そしておまえは、おやがたてたいえで、やちんもはらわないでへいきでくらしている。しぜんかいのどうぶつをみてみろ。みんなくうためにひっしだ。しぜんかいはくうかくわれるかのせかいだ。にんげんも、きれいごとをいっているが、にたようなものだ。しかし、しぜんかいとちがうところがひとつある。それは、ぶっしょうのたましいであるだいやもんどだましいをもっているということだ。せいぞんきょうそうはきびしいが、このたましいのおかげで、ほんとうのいきるいみをみうしなうということはない。しかし、このたましいをみうしなったとき、いくさ(せんそう)がおきるのだ。おまえも、ほんらいこのだいやもんどだましいは、こころのおくそこにもっている。しかし、いろんなことがげんいんでなかなかおもてにでてこないだけなのだ。おまえはいまこのだいじなだいやもんどだましいを、こころのちゅうしんにすえていきていくことがだいじなのに。にんげんも、しぜんかいのどうぶつとおなじく、まいにちが、たたかいなのだぞ。なにとたたかっているのかというと、まずは、じぶんとのたたかいだ。にんげんのさいだいのてきは、まずはじぶんなのだ。てきはたにんではないぞ。うちなるこころのてきが、おまえのこころのなかにすみついているのだ。そいつをまず、だいやもんどだましいで、そうじしなければならない。せんにゅうかんねんや、ざつねん、もうそうも、いっしょにそうじされる。そのたたかいに、まずかつことだ。つぎにきょうそうというたたかいだ。このたたかいが、げんどうりょくとなって、にんげんは、しんぽしているのだ。ここからにげてしまうと、こころはどんどんいいわけというじつにここちいい、りくつをつくりはじめるのだ。おまえはここがわかっていない。このきびしさと、こころのげんりが、わかっていない。にんげんが、いきていけるのは、さかなやどうぶつたちを、ちえをつかってつかまえてきて、たべているからだ。にんげんが、いちまいも、にまいもうえってことだ。くうかくわれるかのくうほうがにんげんだ。そんないちまいも、にまいもうえのにんげんのおまえが、じんせいが、うまくいかないのは、おれがわるいんじゃない、ひとがわるいんだ、おやがわるいんだ、よのなかがわるいんだ、とぜんぶせきにんを、おしつけている。これはおまえのこころがこしょうしているからだぞ。こしょうしているからうまくいかないのだ。いいか、きかいでもどこかこしょうしていればうまくいかないものだ。もし、きかいがこしょうしたらどうする? どこがこしょうしているのか、きかいのなかをみてみるだろう。そしてこしょうしているところをはっけんして、そこをしゅうりしてうごかすだろう。おまえはこころがこしょうしているにもかかわらず、そのこしょうしているところをはっけんしようともしない。これでは、おまえのじんせいがうまくいくはずがない。こころというのは、ほとんどかんがえかたということだ。かんがえかたというのは、ひとがなおせるものではない。じぶんでくろうしながらなおすしかないのだ。おまえをだめにしているのは、そのこしょうしているところを、はっけんしようともしない、おまえじしんのこころなのだ。それがおまえをだめにしている、はんにんだ。そしてな、おまえは、たべもののありがたみ、りょうりをつくってくれるおやのありがたみ、しょくりょうをかうことができるおかねのありがたみが、まったくわかっていない。だいやもんどだましいは、わしが、おいおいと、おしえてやる。しばらくなにもたべずにここにいろ。いま、にげられないようにこのきにしばるぞ」といって、こんどはじんごろうをしゃがんだままそのきにしばりつけました。これではいくらはらがへっても、なにもたべられません。せいしんは、そのままじんごろうを、きにしばりつけたままいってしまいました。

 じんごろうは、きにしばりつけられたじょうたいで、みっかかん、そとにほうちされました。そんなじんごろうは、はらがへって、はらがへって、どうにもなりません。いままでこんなけいけいなどしたことがありませんでした。とうとうないてしまいました。しかし、どんなにないても、わめいても、たべものはでてきませんでした。そしてしばらくすると、せいしんがやってきました。そしてじんごろうに「どうだ、たべもののありがたみをかんじるか? おやのありがたみをかんじるか? かねのありがたみをかんじるか? おまえは、いままでたべものにかんしゃしたことは、いっぺんもないだろう。おやをあごでつかってきただろう。かねはてんからふってくるものとおもっていただろう。おやもおまえをおうさまにしたのがまちがいだったのだがな」といったのでした。そういってせいしんは、みずをすこしじんごろうにやりました。じんごろうは、こんなにもみずがおいしいとはおもいませんでした。おもわず「うめー、うめー・・・・」とさけんでしまいました。それをみたせいしんは「みずがどんなにだいじなものかわかっただろう。あまりにもみずがふつうにあるものだからみずのありがたさもわからなくなっていたのだぞ」と、じんごろうにいいました。じんごろうは「うん、うん、・・・」となんどもくびをたてにふり、せいしんのいうことにあいづちをうっていました。そんなじんごろうをみたせいしんは「このにんげんは、たすかるかもしれないな」とおもったのでした。そして、そのばを、はなれました。しばらくしてこんどはおかゆをすこしもってきてやりました。せいしんはじんごろうのくちにおかゆをたべさせました。じんごろうはあまりのうまさになみだをながしました。せいしんはこころのなかで「きいたようだなぁ」とおもいました。そしてじんごろうにむかって「このこめはなぁ、おひゅくしょうさんがなぁ、ひろいたんぼを、くわで、じぶんのちからでたがやしてつくったこめなんだぞ。いちにちじゅうたんぼをたがやしてみろ。くたくたになるのだぞ。それだけではこめはできない。まだまだじゅうろうどうしなければならないのだ。そんな、おひゃくしょうさんのことをかんがえて、このおかゆをすするのだぞ。そうすればもっとこのおかゆのありがたみがわかるぞ」といいました。それをきいていたじんごろうは「うん、うん・・・・」とくびをたてにまたふりました。せいしんはこころのなかで「このにんげんは、いがいとすなおなところがあるぞ」とおもいました。そしてイチョウのきから、かいほうしてもいいようなきもちになっていきました。しかし、そのことがあとでとんでもないことになろうとは、せいしんはゆめにもおもっていませんでした。

 おかゆをたべさせて、しばらくしてせいしんは、じんごろうに「どうだ、おかゆのありがたみがわかったか?」としつもんしたのです。するとじんごろうは、ちいさいこえで「はい、わかりました」といったのです。それをきいたせいしんは「いまおまえを、そのきからかいほうしてやるぞ」といったのです。そして、きにしばられているじんごろうのなわをほどいてやったのでした。すると、じんごろうは、すかさずはしってにげました。おどろいたせいしんは「こらーまて!!」といって、おいかけていきました。じんごろうは、だいどころにあったさしみぼうちょうをとりにいったのでした。そしてそのほうちょうをもってくるなりせいしんに「このやろう!! よくもこんないたいめにあわせてくれたな!!」といって、せいしんめがけてとっしんしてきたのです。せいしんは、けんじゅつのこころえがあったので、かんいっぱつで、そのほうちょうからみをまもることができました。そしてじんごろうにむかって「ころせるならころしてみろ!!」といってじんごろうにせまりました。せいしんはほんとうにたたかうべきときがきたな、とかんじていました。これはさけてとおれないな、ともかんがえていました。おたがいの、かんがえと、かんがえのたたかいがはじまったのでした。じんごろうは、せいしんのはくりょくにあっとうされていました。いざ、ほうちょうをもってあいてをころそうとおもっても、てがふるえてしまって、どうしてもつぎのこうどうがとれませんでした。せいしんは、そんなじんごろうのすきをみて、ほうちょうをもっているてを、おさえて、ほうちょうをとりかえすことにせいこうしたのです。じんごろうは、こしくだけになり、よろよろとくずれてしまいました。そしてがっくりとかたを、おとしたのです。まさに、いきるか、しぬかの、たたかいのしゅんかんでした。せいしんは、じんごろうとのたたかいにしょうりしました。じんごろうは、いままで、じぶんがすべてを、しはいしていたとおもっていたものが、せいしんによって、ほうかいさせられたのです。

 それからというもの、じんごろうはひとがかわったようにせいしんのいうことをすなおにきくようになりました。ちからかんけいがおやのときとちがいぎゃくてんしたのでした。せいしんはじんごろうにきびしくせっしました。かねのありがたみ、くうきのありがたみ、おきゃくさまのありがたみ、たべもののありがたみ、などなど、このよのなかのすべてのもののありがたみを、みをもってわからせようとしていたのでした。しかし、せいしんは「こころからわかる」ということがいかにむずかしいかということもわかっていました。そのため、だきょうはゆるしませんでした。

 そんなきびしいせいかつが、はんとしけいかしました。じんごろうは、このはんとしかんの、せいしんのしどうにより、じぶんのかんがえかたが、まちがっていたことがわかったのです。こころのこしょうかしょを、はっけんすることができたのです。じぶんがまちがったかんがえかたをしていることにきづいたのでした。すべてうまくいかなかったげんいんが、じぶんにあるということをさとったのでした。せいしんは、そのことにきづいたじんごろうをみて、このせいかつが、おわりにちかいとかんじていました。そして、じんすけと、おきくにこうつげました「これでわしはここからさります。じんごろうさんもよくがんばりました。やっとわかったみたいです。わかるということはたいへんなことなのですが、こくふくしたようです。しかし、にんげんは、まんしんというのもありますから、ひび、じぶんをりっしなければなりません。そこをよくみてやってください。そしてだいじなことは、けっしてこどもを、おうさまにしてはなりません。おやのいげんが、たいせつなのです。ちからかんけいのしゅどうけんは、おやがにぎらなければなりません。わしは、しゅどうけんをにぎるたたかいで、さいしょはころされるかとおもいました。しかし、なんとか、しょうりすることができました。そのためにじんごろうさんは、たちなおることができたのです。ほんにんも、なすおんせんで、もういちどいたまえのしゅぎょうをいちからやりなおしたいといっています。ぜひじつげんさせてください」と。そのことをきいたふたりは、せいしんのいったとおりにしました。そしてせいしんは、おれいにじんすけから、おかねをすこしいただき、つぎの、じょうしゅうのぬまたへと、たびだっていったとさ。   おしまい

 注意・・・人を縛って木にぶら下げたり、木に縛ったりしないで下さい。この物語に出てくるこれら行為はあくまでも「物語」のなかのお話です。真似はしないで下さい。引きこもりは、はっきりとした理由や原因がよく分からないものが多くあります。引きこもりは百人百様の理由があります。それにともなって百人百様の対応があります。

まごころ地蔵

優しくおもいやりのある人間になる方法

世界一こころ豊かで挑戦力のある元気な日本を創ろう!!

 あなたの人生への応援詩  解説
 
地球を捨てて、太陽になれ!!
     

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「心の毒消しはいらんかね〜〜」GFIT法のメリット

人間の真価は過去の魂ではなく、未来の魂で決まる
Man’s real value is decided by the soul of the future instead of the past soul.

人間にとって基本的に大切なものは「真心」です。真心を木で例えるならば根っこではないでしょうか。この根っこがしっかりしていれば嵐(様々な誘惑等)に勝利することができます。しかし腐っていればだめになってしまいます。このような時代、目には見えない大切な根っこをしっかりしたものにしていきたいものです。この物語を考えた背景には情報の氾濫があるからです。情報の氾濫によって何が大切なものなのかを見失っていく可能性もあると思ったからです。

 昔々、越後の国(今の新潟県)のある村のはずれに、もう何百年も掃除をしてもらっていないお地蔵様がありました。ごみやほこり、落ち葉などをかぶってこけなども生えて汚くなっていました。昔は村の人達がよく掃除をしてきれいにしていましたが、あるときから村の人達の心が変わり誰も掃除をしなくなったのです。そんなある秋に一人のおばあさんがこの村に引っ越してきました。それもこのお地蔵様の向かいの空き家に引っ越してきたのです。このおばあさんは若いときから信仰心の厚い人でした。毎朝おきてはお天道様に手を合わせ「きょう一日何事もなく、平安に暮らせますようにのう。きょうまたこのように生かされたっけのう、ありがてぇてね。」といつも心からのお祈りをささげていました。

新しい人間観

そんなおばあさんが引越しの整理のついた翌日に、近所に引越しの挨拶をしようと思って歩くと、すぐに、ごみやほこりをかぶって、こけが生えているお地蔵様を見つけました。すかさず「おうおう、なんとかわいそうなお地蔵さんだのう。」と言って、挨拶のことなどすっかり忘れて、家に掃除の道具を取りに行きました。そして一生懸命にお地蔵様の掃除を始めたのです。もう何百年も掃除をしていなかったものですから、それは大変でした。あばあさんは引越しの疲れも忘れ、お地蔵様を本当にきれいにしてしまいました。おばあさんは「あーあ疲れたのう。でもお地蔵様がこんなにきれいになったのでよかったのう、よかったのう。そうだ、毎日掃除をしてきれいにしてお地蔵様に喜んでもらおう。」と言って、一服をしに家に帰りました。その後挨拶周りを終えたのでした。

それからというもの毎日、毎日、お天道様に手を合わせ、お地蔵様の掃除をし、お地蔵様にも手を合わせる生活を送っていました。そんなある日に、なんとおばあさんはお地蔵様がかわいそうだと思ってお地蔵様専用の小さな小屋を建ててやりました。おばあさんは「これで雨や雪、風にも大丈夫。よかったのう。よかったのう。」と自分のことのように喜んでいました。

おばあさんが引越しをしてから三年ぐらいたった夏の朝に、いつものようにおばあさんはお地蔵様の掃除をして手を合わせて家に帰ろうとしたそのとき、「おトラ、おトラよ、私はここの地蔵だ。毎日ありがとう。」という声がしたのです。おばあさんはびっくりして腰をぬかしてしまいました。一瞬何が起きたのか分からなくなったのです。そしておばあさんは「確かに今、私の名前を呼んだよなぁ? 」とひとり言を言いながらあたりを見まわしました。しかし、人影はありませんでした。おばあさんは「ま、ま、ま、まさかお地蔵様がしゃべったのらろっかのー?! 」とまたひとりごとを言いました。するとお地蔵様が「そうだ。私がお前の名前を呼んでお礼を言ったのだ。」と言いました。おばあさんは夢か幻を見ているのではないかと思ってついホッペをつねってみると「痛い!!」とすぐに感じました。おばあさんは、これは夢でも幻でもない、と直感すると我に帰り「お地蔵様、何で私の名前がわかったろうのう。」と尋ねました。そうするとお地蔵様は「私はすべて知っている。このかた、何百年と人間を見てきた。知らないのはないのだ。」とおっしゃいました。そして「おトラ、お前もだいぶ年をとってきた。残り少ないこの世でお前の望むものなら何でもかなえてやろう。」とおっしゃったのです。これにもおばあさんはびっくりしました。おばあさんは少し考えて「お地蔵様、私はあとせいぜい五年ぐらいしか生きらんねてね。この残りの五年の間に病気しゃんで、健康に生きらっれば、こんないいことはねてね。望みといったらこんなもんですっけ。」と言いました。そうするとお地蔵様は「欲のないおトラだ。分かった。あと残りの人生の健康をお前にあげよう。」とおっしゃったのです。するとおばあさんは「ほんね、ありがとうございます。」と言って手を合わせました。

そしてその翌日、いつもの日課をこなし家に帰ろうとしたそのとき「おトラ、お前には死ぬまでの健康を授けた。そして死ぬまでの暮らしに困らない程度の金と米を私の気持ちとして差し上げよう。」とおっしゃったのです。するとおばあさんは「あーあー。もったいねてね。ほんね、ありがとうございます。」と言って家に帰りました。すると家の中の玄関にお地蔵様がおっしゃったとおりのお金とお米がきちんと置いてありました。おばあさんは「お地蔵様、ほんね、ありがたかったれ。」と感謝の言葉をささげました。

きのうときょうのお地蔵様とおばあさんのやり取りを見ていた、隣の欲張りで金持ちの小ずるい大家のおじいさんは「ははあ。あんなことをお地蔵様にしてくっれば、何でも望むものをくれるんだな。俺もさっそく真似して、あしたの夕方からやってみろっと。」と言いました。

 その翌日の夕方、大家のおじいさんは掃除の道具を持ってお地蔵様の前にきました。お地蔵様はおトラばあさんが毎日掃除をしているのでとてもきれいでした。大家のおじいさんはお地蔵様がきれいなので掃除をするふりをして簡単に掃除をしました。大家のおじいさんは「まあ、こんげことを何日かしてやってやればお地蔵様もきっと俺に声をかけてくれるに違いねすけ。」と考えていました。しかし、いくらそんなことをやってもお地蔵様の声は聞こえてきません。短気な大家のおじいさんは「まったく、どうしたろうのう。このお地蔵様はぼんくらろっかのう。それともただの石か。」などと挙句の果てにお地蔵様の文句を言い始めました。文句を言いながらも大家のおじいさんはお地蔵様から大金をもらいたいために我慢して掃除をするふりを続けていました。ちょうど掃除を始めて半年後の日にお地蔵様の声がしました。「大家の平吉、そんな掃除をするふりをしてこの私をだまそうとしてもむだだ。お前は生まれてこの方、私に見向きもしなかっただろう。隣のおトラのやっていることを見て、自分もあやかりたいと思ったのだろう。しかしな、平吉よ、お前には財産はあるが真心と感謝の心という目には見えない大切なものがない。お前はおトラの手を合わせている姿を見たことがあるのか。それは美しい姿だ。なぜ美しいかというと、おトラは損得やご利益で手を合わせているのではないからだ。ただただ感謝の心から手を合わせているだけなのだ。私はそんなおトラの真心に心を打たれたのだ。お前のように欲張りで、小ずるい人間の心はすぐに分かるのだ。お前が隣の町の温泉街で土産用として売っているまんじゅうの``あんこ``のことも知っているのだぞ。お前は売れ残りのまんじゅうの``あんこ``を新しいまんじゅうの中に入れているだろう。誰にも気付かれていないと思っていただろうが、そうはいかないぞ。」とおっしゃいました。これには大家のおじいさんもびっくり仰天しました。そして「お地蔵様、何で俺の名前が分かったろうのう。何でまんじゅうのあんこのことも知っていっろうのう。」と聞きました。するとお地蔵様は「私はすべておみとおしだ。何でも分かっている。」とおっしゃいました。これまた大家のおじいさんはびっくりしました。そして大家のおじいさんは「お地蔵様、そんなこと言っても、この世の中、きれい事だけ言ってみても、なかなか通用しねっし、儲からねてね。」と言いました。そうするとお地蔵様は「ほぉほー。それでは平吉、お前は汚い方法で儲けても平気なのか。お前の言い方だとそういうことになるぞ。きれいの反対は汚いということだ。汚いやり方はいつか行き詰り、ボロがでるものなのだ。そして、悪知恵がどんどん出てくるものなのだ。その挙句の果てに、財産もなくし、信用もなくして、すべてを失うぞ。人間は基本というものがある。それを忘れていると、いろいろな問題が出てくるぞ。だから平吉よ、目には見えないものをまず基本にして、大切にしていくことは大事なことだよ。この機会に今までの生き方を振り返り、心を入れ替えて、新たに生きていってみてはどうだ。」とおっしゃいました。すぐにはさすがの大家のおじいさんもびっくりが先で返答に困りました。そして少し考えて「分かったれ。一晩考えさせてくんねろっかのう。」とお地蔵様に申しあげました。するとお地蔵様は「分かった。」とおっしゃいました。

 その夜、大家のおじいさんは一睡もしないで今までの自分の人生を振り返り、自分という人間がどんな人間だったかを生まれて初めて見つめなおしました。その結果、大家のおじいさんは自分のことしか考えない欲張りで、思いやりのない、何事にも感謝のない自己中心の人間だったことが分かりました。自分の本当の姿にはじめて気がついたのです。そして今までのことを悔い改めて心を入れ替えました。もちろん売れ残りのまんじゅうのあんこを新しいまんじゅうの中に入れることもやめることにしました。

人間の真価は過去の魂ではなく、未来の魂で決まる
Man’s real value is decided by the soul of the future instead of the past soul.

早速翌日に隣のおばあさんを自分から誘ってお天道様とお地蔵様に手を合わせました。もちろんおばあさんといっしょにお地蔵様の掃除を真心込めてやりました。そして大家のおじいさんは「もしお地蔵様に俺の悪いところを言ってもらえなかったらとんでもない余生を送るところだったてねぇ。本当にお地蔵様、ありがたかったれ。俺が間違っていたてね、もう何もいらんてね。有り余る財産もあるっけぇ、これからは困っている村人を物心両面で助けっれ。そっれ、みんなを幸せにしますっけ。」と言ってお地蔵様に手を合わせました。するとお地蔵様が「平吉よ、心を入れ替えたのだなぁ。これでお前は極楽へ行けるぞ。人は自分の顔が見えないのと同じく、自分の心というものが見えない。しかし、他人のこととなるとよく見えるものだ。これからは自分を棚に上げて人の欠点ばかりを見るのではないぞ。これからはダイヤモンド魂で生きていくのだぞ。」と言いました。そしてそれが最後のお言葉でした。それっきりお地蔵様は何もしゃべりませんでした。 それからというもの、この村はお地蔵様を「まごころ地蔵」と名付けていつまでも大切にしました。そしてみんなが幸せになったとさ。     
おしまい


まごころじぞう

 むかし、むかし、えちごのくにの、あるむらのはずれに、もう、なん、びゃく、ねん、も、そうじをしてもらっていない、おじぞうさまがありました。ごみやほこり、おちばなどをかぶって、こけなどもはえて、きたなくなっていました。むかしはむらのひとたちが、よくそうじをしてきれいにしていましたが、あるときから、むらのひとたちのこころがかわり、だれもそうじをしなくなったのです。そんなあるあきに、ひとりのおばあさんが、このむらにひっこししてきました。それもこのおじぞうさまのむかいのあきやに、ひっこししてきたのです。このおばあさんは、わかいときから、しんこうしんのあついひとでした。まいあさ、おきては、おてんとうさま(たいようのこと)に、てを、あわせ「きょういちにち、なにごともなく、へいあんにくらせますように。きょうまたこのように、いかされました。ありがとうございます。」といつも、こころからおいのりをささげていました。

 そんなおばあさんが、ひっこしのせいりのついたよくじつに、きんじょに、ひっこしのあいさつをしようとおもって、あるくと、すぐに、ごみやほこりをかぶって、こけが、はえている、おじぞうさまをみつけました。すかさず「おうおう、なんとかわいそうな、おじぞうさま、だこと。」といって、あいさつのことなどすっかりわすれて、いえにそうじの、どうぐを、とりにいきました。そしていっしょうけんめいに、おじぞうさまの、そうじをはじめたのです。もう、なん、びゃく、ねん、も、そうじをしていなかったものですから、それはたいへんでした。あばあさんはひっこしのつかれもわすれ、おじぞうさまをほんとうにきれいにしてしまいました。おばあさんは「あーあ、つかれた。でもおじぞうさまがこんなにきれいになったのでよかった、よかった。そうだ、まいにちそうじをして、きれいにして、おじぞうさまによろこんでもらおう。」といって、いっぷくをしに、いえにかえりました。そのご、あいさつまわりをおえたのでした。

 それからというもの、まいにち、まいにち、おてんとうさまに、てを、あわせ、おじぞうさまの、そうじをし、おじぞうさまにも、てを、あわせる、せいかつをおくっていました。そんな、あるひに、なんと、おじぞうさまがかわいそうだとおもって、おじぞうさませんようの、ちいさな、こやを、たててやりました。おばあさんは「これであめやゆき、かぜにもだいじょうぶ。よかった、よかった。」とじぶんのことのようによろこんでいました。

 おばあさんがひっこしをしてから、さんねんぐらい、たった、なつの、あさに、いつものように、おばあさんはおじぞうさまのそうじをして、てを、あわせて、いえにかえろうとしたとき、「おとら、おとらよ、わたしは、ここの、じぞうだ。まいにちありがとう。」という、こえがしたのです。おばあさんはびっくりして、こしをぬかしてしまいました。いっしゅんなにがおきたのかわからなくなったのです。そしておばあさんは「たしかにいま、わたしのなまえをよんだよなぁ? 」とひとりごとをいいながらあたりをみまわしました。しかし、ひとかげはありませんでした。おばあさんは「ま、ま、ま、まさかおじぞうさまがしゃべったのかな?! 」とまたひとりごとをいいました。するとおじぞうさまが「そうだ。わたしがおまえのなまえをよんでおれいをいったのだ。」といいました。おばあさんは、ゆめか、まぼろしをみているのではないかとおもって、ついほっぺをつねってみると「いたい!! 」とすぐにかんじました。これはゆめでもまぼろしでもないとちょっかんすると われにかえり「おじぞうさま、なんでわたしのなまえがわかったのでしょうか。」とたずねました。そうするとおじぞうさまは「わたしはすべてしっている。このかた、なん、びゃくねんも、にんげんを、みてきた。しらないのはないのだ。」とおっしゃいました。そして「おとら、おまえもだいぶとしをとってきた。のこりすくない、このよで、おまえの、のぞむものならなんでもかなえてやろう。」とおっしゃったのです。これにもおばあさんはびっくりしました。おばあさんはすこしかんがえて「おじぞうさま、わたしはあとせいぜい、ごねん、くらいしか、いきられません。この、のこりの、ごねんの、あいだに、びょうきをしないで、けんこうにいきていければ、こんないいことはありません。のぞみといったらこんなものです。」といいました。そうするとおじぞうさまは「よくのない、おとらだ。わかった。あとのこりのじんせいの、けんこうをおまえにあげよう。」とおっしゃったのです。するとおばあさんは「ほんとうにありがとうございます。」といって、てを、あわせました。

 そしてそのよくじつ、いつもの、にっかを、こなし、いえにかえろうとしたそのとき「おとら、おまえには、しぬまでの、けんこうをさずけた。そして、しぬまでの、くらしにこまらないていどの、かねと、こめを、わたしのきもちとしてさしあげよう。」とおっしゃったのです。するとおばあさんは「あーあー。もったいないことです。ほんとうにありがとうございます。」といって、いえに、かえりました。すると、いえの、げんかん、に、おじぞうさまがおっしゃったとおりの、おかねと、おこめが、ちゃんとおいてありました。おばあさんは「おじぞうさま、ほんとうにありがとうございました。」と、かんしゃのことばを、ささげました。

 きのうと、きょうの、おじぞうさまと、おばあさんのやりとりをみていた、となりのよくばりで、かねもちの、こずるい、おおやのおじいさんは「ははあ。あんなことをおじぞうさまにしてやれば、なんでも、のぞむものをくれるんだな。おれもさっそくまねをして、あしたのゆうがたから、やってみよう。」といいました。

 そのよくじつの、ゆうがた、おおやのおじいさんは、そうじの、どうぐ、をもって、おじぞうさまのまえにきました。おじぞうさまは、おとら、ばあさんが、まいにちそうじをしているので、とてもきれいでした。おおやのおじいさんは、おじぞうさまがきれいなので、そうじをするふりをして、かんたんにそうじをしました。おおやのおじいさんは「まな、こんなことを、なんにち、か、してやれば、おじぞうさまも、きっとおれにこえをかけてくれるにちがいない。」と、かんがえました。しかし、いくらそんなことをやっても、おじぞうさまのこえはきこえてきません。たんきな、おおやのおじいさんは「まったく、どうしたのだろう。このおじぞうさまは、ぼんくらなのか。それとも、ただの、いしか。」などと、あげくのはてに、おじぞうさまの、もんくを、いいはじめました。もんくを、いいながらも、おおやのおじいさんは、おじぞうさまから、たいきんを、もらいたいために、がまんして、そうじをするふりをつづけました。ちょうどそうじをはじめて、はんとしごの、あるひに、おじぞうさまのこえがしました。「おおやの、へいきち、そんなそうじをするふりをして、このわたしを、だまそうとしてもむだだ。おまえは、うまれてこのかた、わたしに、みむきもしなかっただろう。となりの、おとらの、やっていることをみて、じぶんもあやかりたいとおもったのだろう。しかしな、へいきち、おまえには、ざいさんは、あるが、まごころと、かんしゃのこころ、という、めには、みえない、たいせつなもの、がない。おとらの、てをあわせている、すがたをみたことがあるのか。それはうつくしいすがただ。なぜうつくしいかというと、おとらは、そんとく、や、ごりやく、で、てを、あわせているのではないからだ。ただ、ただ、かんしゃのこころから、てを、あわせているだけなのだ。わたしは、そんな、おとらの、まごころに、こころをうたれたのだ。おまえのようによくばりで、こずるい、にんげんの、こころはすぐにわかるのだ。おまえが、となりのまちのおんせんがいで、みやげようとしてうっている、まんじゅうの``あんこ``のこともしっているのだぞ。おまえはうれのこりのまんじゅうの``あんこ``をあたらしいまんじゅうのなかにいれているだろう。だれにもきづかれていない、とおもっていただろうがそうはいかないぞ。」とおっしゃいました。これには、おおやのおじいさんも、びっくりぎょうてんしました。そして「おじぞうさま、なんで、おれのなまえが、わかったのでしょうか。なんでまんじゅうの``あんこ``のこともしっているのですか。」とききました。するとおじぞうさまは「わたしはすべておみとおしだ。なんでもわかっている。」とおっしゃいました。これまた、おおやのおじいさんはびっくりしました。そして、おおやのおじいさんは「おじぞうさま、そんなこといっても、このよのなか、きれいごと、だけいってみても、なかなか、つうようしないし、もうからないのです。」といいました。そうすると、おじぞうさまは「ほぉほー。それでは、へいきち、おまえは、きたないほうほうで、もうけてもへいきなのか。おまえのいいかただと、そういうことになるぞ。「きれい」のはんたいは「きたない」ということだ。きたない(または、わるい)やりかたはいつかいきづまり、ぼろ、がでるものなのだ。そして、わるい、ちえが、どんどんでてくるものなのだ。そのあげくのはてに、ざいさん、もなくし、しんようもなくして、すべてをうしなうぞ。ひとは、きほん、というものがある。それをわすれていると、いろいろな、もんだいが、でてくるぞ。だから、へいきち、めには、みえない、たいせつなもの、を、まず、きほん、にしていくことは、だいじなことだよ。このきかいに、いままでのいきかたを、ふりかえり、こころをいれかえて、あらたに、いきていってみてはどうだ。」とおっしゃいました。すぐには、さすがのおおやのおじいさんも、びっくりがさきで、へんとうにこまりました。そして、すこしかんがえて「わかりました。ひとばんかんがえさせてください。」とおじぞうさまにもうしあげました。するとおじぞうさまは「わかった。」とおっしゃいました。

 そのよる、おおやのおじいさんはいっすいもしないで、いままでのじぶんのじんせいをふりかえり、じぶんという、にんげん、がどんな、にんげんだったかを、はじめてみつめなおしました。そのけっか、大家のおじいさんは、じぶんのことしかかんがえない、よくばりで、おもいやりのない、なにごとにも、かんしゃのない、じぶんちゅうしん、の、にんげん、だったことが、わかりました。じぶんのほんとうのすがたに、はじめて、きがついたのです。そして、いままでのことを、くいあらためて、こころをいれかえました。もちろん、うれのこりのまんじゅうの``あんこ``を、あたらしいまんじゅうのなかにいれることもやめることにしました。

 さっそく、よくじつに、となりのおばあさんを、じぶんからさそって、おてんとうさまと、おじぞうさまに、てを、あわせました。もちろん、おばあさんといっしょに、おじぞうさまのそうじを、まごころをこめてやりました。そしておおやのおじいさんは「もしおじぞうさまにおれのわるいところをいってもらえなかったらとんでもないよせいをおくるところでした。おじぞうさま、ありがとうございました。おれがまちがっていました。もうなにもいりません。おれには、ざいさん、がいっぱいありますので、これからは、こまっているむらびとを、ぶっしんりょうめんで、たすけます。そしてみんなをしあわせにします。」といって、おじぞうさまに、てを、あわせました。するとおじぞうさまが「へいきちよ、こころをいれかえたのだなぁ。これでおまえはごくらくへいけるぞ。ひとはじぶんのかおがみえないのとおなじく、じぶんのこころというものがみえない。しかし、たにんのこととなるとよくみえるものだ。これからはじぶんをたなにあげて、ひとのけってんばかりをみるのではないぞ。これからはダイヤモンドだましいでいきていくのだぞ。」といいました。そしてそれがさいごのおことばでした。それっきりおじぞうさまはなにもしゃべりませんでした。 そりからというもの、このむらは、おじぞうさまを「まごころじぞう」となづけて、いつまでも、おじぞうさまをたいせつにしました。そしてみんながしあわせになったとさ。      おしまい

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